◆東京、大阪の空襲被災者に同行し、2月11日から8日間、ドイツの空襲被災都市を訪れた。第2次大戦、ナチス・ドイツによる加害の反面、米英軍の無差別空爆でドレスデン、ベルリンは廃墟となり、ハンブルクでは3万5000人もの市民が犠牲になった。空襲を生き抜いた体験者たちが言葉を越え、国境を越えて、空からの虐殺を繰り返さないことを誓い合った。(うずみ火 矢野宏)
◆ドイツで東京空襲の体験語る
空襲から67年を迎えた2月13日。市民団体「1945・2・13」などによる追悼式典が三王教会で行われ、45年3月10日の東京大空襲を体験した二瓶治代さん(75)が市民ら100人を前に体験を語った。
今年で8回目を数える追悼式典で、日本の空襲被災者が体験を話すのは初めて。当時、二瓶さんは8歳、両親と兄と妹の5人家族だった。「10日の深夜、父に起こされて外へ出ると、街は一面火の海でした。父に手を引かれて逃げる途中で防空頭巾に火が付いたので、手を離した直後、火の風に吹き飛ばされてしまいました。道端に倒れた私の上に避難してきた人たちが折り重なるようにして倒れ、意識を失ってしまいました。どれぐらい時間がたったのか。私は折り重なった遺体の一番下から父親によって引きずり出されました。私の上にいた人たちはみんな焼け死んでおり、私は焼き殺された人たちに守られたのです。
炎のおさまった街には黒々とした遺体がいたるところにあリました。子どもを抱いてうつぶせの母親、大きな死体の周りに寄り添っている小さな遺体は子どもたち......。その前日、『明日一緒に遊ぼうね』と言って別れた友達も、親戚の子どもたちもみんな亡くなってしまいました」
時折、声を詰まらせながら語る二瓶さん。こんな言葉で講演を締めくくった。
「平和を願う気持ちは言葉を越え、国境を越えて手をつないでいければ、きっと戦争のない時代をつくることができると思います。平和を願う心はドレスデンの皆さんと同じです。私もささやかですけれど、これからも空襲体験を語り継いでいきたいと思います」
元医師のシュミーガ・ゴッドフリードさん(82)は「日本でも空襲があったとは知らなかった」と感想を述べ、自らの体験を振り返った。
空襲当時14歳。両親と二つ下の妹と5歳だった弟の5人で市街地に住んでいた。空襲警報が鳴り、家族は自宅の地下室へ逃げ込んだ。やがて猛爆撃が始まり、炸裂音がするたび、アパートが揺れた。2㌔ほど離れた公園へ避難することになり、家を飛び出すと、街が燃えていた。逃げ惑う人たちでごった返していた。
空襲が収まると、父親は家財道具を取りに戻った。翌14日午前1時ごろ、再び英軍による空爆が始まった。兄弟3人は公園の木陰に隠れていたが怖くなり、助けを求めて近くの家へ飛び込んだ。その家も焼夷弾によって燃え始めたため、ゴッドフリードさんらは再び外へ飛び出した。
その後、父親とは再会できたが、自宅は跡形もなく焼け落ち、親戚や友人たちも大勢亡くなったという。
「二度と繰り返したくない恐ろしい体験をした。私たちは被害者だが、同時に誰がこの戦争を始めたのかを考えねばならない。われわれにも罪があるというところから始めないと、戦争は再び繰り返されてしまう」。
日独の戦争責任に向き合う姿勢の違いがその言葉に込められている。
三王教会での追悼式典のあと、旧市街地の周りで市民ら1万人が手をつないで平和を訴える「人間の鎖」が行われた。市庁舎前を出発した訪問団はエルベ川にかかる橋の上で横断幕を掲げ、午後6時からの教会の鐘の音を合図に手をつないだ。
二瓶さんの左手はドイツ人女性としっかりと結ばれていた。「平和を求める気持ちがつながっているんだと思うと、心まで温かくなりました」。
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