◆進学の機会奪われ
ドレスデンに着いた翌12日、市内の「外国人審議会」の建物でドレスデン空襲の被災者、その支援者との交流会が開かれた。アニータ・ヨーンさん(80)は空襲で家族を失い、孤児になった。当時12歳だった。
67年前の2月13日午後10時ごろ、空襲警報で目を覚ましたヨーンさんは、両親や祖母らと自宅の地下室へ逃げ込んだ。爆弾の破裂音がとどろくたびに身を硬くしたという。
うち一発がヨーンさんの家を直撃、地下室に避難していた14人が崩れたガレキで生き埋めになった。ヨーンさんは薄れていく意識の中で見た、両親のもがき苦しむ姿を今でも記憶しているという。
16時間後、助け出されたヨーンさんは自宅のガレキを自力で掻き分けて、地下室から両親を助け出そうとした。周りの大人たちも手伝ってくれ、地下室への入り口を掘り当てたとき、両親たちはすでに窒息死していた。
「私よりも年下の子どももいました。それでも助かったのは私一人でした......」叔父に引き取られ、戦後を生き抜いたというが、ヨーンさんは多くを語ろうとしない。空襲がなければどんな人生を送っていただろうか。
「上の学校へ行きたかった、成績もよかったので。でも、親戚に引き取られて養ってもらっている身なので、これ以上の迷惑をかけることができません。結局、あきらめるしかなかった。上の学校へ行けないというのは人生にとって不利ですよ」日本の若い世代へメッセージを求めると、「人の痛みを受け止める大人になってほしい」と静かな口調で語った。
元小学校教師のアルブレヒト・ケーニックさん(81)は妻のクリスタさん(76)と一緒に出席した。アルブレヒトさんは当時15歳。郊外に住んでいたため、空襲による被害は免れた。
だが、突然、ナチスの関係者がやってきて、近所の若者とともに市街地へ行き、格納庫からピストルやマシンガンなどの武器を取り出すよう命じられた。街は炎に包まれていた。血だらけになって横たわっている老人、わが子の名前を泣き叫びながら探している母親、炎に焼かれて黒焦げになった遺体も目の当たりにした。
「まさに地獄絵だったよ」。炎が武器庫にも迫ってくる。ケーニックさんらは一目散に逃げた。
ナチから逃れたものの、英軍による空襲が再び始まった。ケーニックさんは近くのアパートへ逃げ込んだ。ほどなく、一発の焼夷弾がアパートの屋根を突き破り、ベッドの上に転がった。身動きできなかった。その部屋の住民がベッドごと外へ放り出し、事なきを得たという。
「一秒でも遅かったら、私は今ここにいないかもしれない」と、ケーニックさんはため息をついた。
この日の交流会を主催したのは、ドレスデンの市民グループ「1945・2・13」。87年に設立されて以降、空襲体験の「記憶」を若い世代に継承してもらうため、「生きた証」と題した写真展を開いたり、学校への啓蒙活動を行ったりしている。
さらに、戦争犠牲者はドイツ人だけではないと、ナチス・ドイツが空襲した英国のコヴェントリー、スペインのゲルニカなどを訪れ、空襲被害者との和解にも努めている。
一方で、気になる動きも出てきた。ネオナチの存在だ。特に、失業率の高い旧東ドイツの若者の間で広がりを見せている。ドレスデン空襲を「爆弾ホロコースト(大量虐殺)」と位置づけ、ドイツ人の被害をことさら強調して加害の事実を消そうとしており、そんな動きにも警戒を強めている。
ヨーンさんは「私たちの世代は少なくなっていき、いつかはいなくなります。私たちの体験を次の世代にどう受け継いでもらうか。被害と加害とを混同してはいけません。そのためにも、戦争を仕掛けられた被害者と話し合うことで心の痛みを共有し、『和解』していくことが大事なのです」と語っていた。
(うずみ火 矢野宏)
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