◆多数の証言・資料
沖縄県内には戦時中、130ヵ所の慰安所が設置されていたことがわかっている。司令部壕内に「慰安婦」とされた女性がいたこと、壕周辺で住民虐殺があったことの証言や資料も数多く残されている。
「私の記憶を削除するということは、私の過去に空白が出来るのと同じです。色々都合の悪いことを隠すのは、政府がままやることですが、それを県がやるとは......」
当時、鉄血勤皇師範隊員として司令部壕にいた渡久山朝章(とくやま・ちょうしょう)さん(83)=読谷村=は「慰安婦」と一緒に壕掘りもした。「4、5人の女性が半そで半ズボン姿で泥にまみれて一生懸命掘っていました。色が白く、兵隊たちは色々と、卑猥なことを言っていました」
さらにある晩、壕の外で異様な叫び声を聞いた。「師範学校の実習田の真ん中に電柱があり、そこにみすぼらしい女性が後ろ手に括られていました。それを数人の女性たちが順番に、『えい、えい』とナイフを突き立てていました」
最後に将校が歩み出て日本刀を抜いた。「このスパイめ」。後に、殺されたのは民間人とわかった。精神を病み、住民が隠れている壕を覗き込んでは、方言で叫んでいたという。「何かあればこうなるという見せしめだったのでしょう。県当局は、亡くなった人たちの前に臆することなく説明板を建てられるのでしょうか」
◆沖縄「語」はスパイ
第32軍司令官、牛島満中将は1944年8月31日、各部隊に対し「防諜に厳に注意すべし」と訓示。米軍上陸まもない4月9日には司令部として、「軍人軍属を問わず標準語以外の使用を禁ず。沖縄語を以って談話しあるものは間諜とみなし処分す」と通達している。当時の年配者は標準語を喋れない人が大多数。「軍隊は住民を守らない」どころか、沖縄戦では800人以上の住民が「スパイ」とみなされ日本軍に殺された。
那覇市に住む譜久山ハルさん(84)にはいまも目に焼きついてはなれない場面がある。「あのおじいさんたちがスパイであるわけないのに」当時、南部の東風平町にあった野戦病院の正看護婦。病院といっても自然壕を利用したもので、ある日、そこに行商人が2人やってきた。それぞれのかごに黒砂糖と芋。方言しか喋れない高齢男性だった。
譜久山さんは芋を買い、2人は壕を後にした。それを軍医が引きとめた。「怪しい。処分しなさい」後ろ手に縛られた2人は兵隊に次々と刺され、絶命した。
次のページへ ...