◆「いまも戦争難民」
大阪・大正区の教会に赴任して13年目になる牧師の上地武さん(49)。それまで大正区という地名を意識したことはなかった。ここにきて初めて、文化や名前までも隠さねばならない同胞たちの苦難の時代があったことを思い知った。
読谷村楚辺(そべ)出身。物心ついたときから米軍基地は隣り合わせにあり、銃を持った兵士が集落を闊歩していた。復帰当時は小学校5年生。「親たちは『でーじなとーん、大変なことになる』と言っていました。経済が混乱すると、心配だったのでしょう。でも僕は、日本になれば雪が降るのかな、とか思ってました。子どもですから」。
軍隊=アメリカ。テレビで見る「日本」に基地はうつらない。日本になれば基地もなくなると思っていた。でも何も変わらなかった。「でーじなとーん」の意味が見えてきたのは75年の海洋博の頃だった。「本土の企業が入り沖縄の経済はめちゃくちゃになりました。日本になるのはこういうことなのか、と」。
上地さんの本籍地はトリイ通信基地の中にある。基地に沿うように形成された新しい楚辺の集落。公民館には巨大な地図が掲げられている。戦前の集落の図面だ。「いつか帰るという思いなんですよ。僕が生まれたのはキャンプ村。まだ本籍地に帰れない。戦争難民と同じです。戦後67年経っても。復帰から40年経っても」。
◆「出身は九州」と
請われて沖縄の楽器、三線を教えることもある。東大阪市の大矢和枝さんは、しかし、かつて沖縄に背を向けてきた。
戦後3年目に読谷村渡慶次(とけじ)に生まれた。高校卒業後、高石市の紡績工場へ。3年間、昼は働き夜は学校に通い保育士の資格を取得した。「生まれはどこ?と聞かれると『九州のほう』。自分から言わなければ隠し通せると思っていました」と振り返る。
大矢さんの父親は米兵。米軍施設で働く大家さんの母親と愛を育んだ。しかし、軍の任務で帰国を余儀なくされる。妊娠はその後わかった。母親は23歳で病死。大矢さんは祖母と母の妹と弟に育てられた。
「アメリカー」「アカブサー(赤い髪)」。小、中学校、激しいいじめにあった。休み時間のたび家に走って帰ったこともある。家族は「いつか見返しなさい」。高校進学率が6割以下の時代、無理をして高校に行かせてくれた。
沖縄と向き合えるようになったのは40代。「アメリカ人の合理的なところも持っているね」。同じ頃、友人に指摘された。それまで否定してきた父親の血を素直に受け入れられた。そして、ふるさとへの思いもまた深まっている。
「以前は『差別』といわれてもぴんとこなかった。でも、沖縄は差別されていると、いまは思う。この前、海兵隊を一部岩国に移転する案が浮上して、岩国が『嫌』だといったらすぐ消えましたよね。しかも玄葉外相は『安心して下さい』って。沖縄の人がずっと言ってほしかった言葉。どうして岩国には言えて、沖縄には言えないのでしょう?」。
(栗原佳子/新聞うずみ火)