東日本大震災から1年、被災地の沿岸部にはいまも津波の爪あとが痛々しく残り、津波や原発事故によって34万もの人たちが避難生活を余儀なくされている。なかでも被災した障害者は厳しい環境に置かれ、より多くの困難に直面してきた。(栗原佳子/新聞うずみ火)
昨年3月11日、鷲見俊雄さん(52)は仙台市若林区の自宅で地震に遭った。築約30年の鉄筋10階建てマンション2階。車いすに乗った状態で、激しい揺れに翻弄された。目の前で、壁に亀裂が走っていく。生きた心地がしなかった。

震災1年の前夜、メッセージを記した灯篭が並ぶJR郡山駅前の広場

 

脳性まひの鷲見さんは起床と就寝時の身体介護と週4回の家事援助を受けながら一人暮らしをしている。大地震が襲ったのは、昼の家事援助が終わり、外出の準備をしている最中だった。

◆情報途絶えた一夜
携帯電話はまもなく通じなくなった。電気もストップ。外はだんだん暗くなっていく。いつもなら就寝介助に来るヘルパーも、この日は音沙汰がなかった。情報に隔絶された部屋で、鷲見さんは一人、一夜を明かすことになる。

仙台市内を電動車いすで移動する鷲見さん。震災の影響で歩道も傷みが目立つ

 

「何度も余震がありましたし、もし建物のどこかで火災が発生して、燃え広がってきたら......とぞっとしました」
厳しい寒さ。加えて、雪まで降りはじめた。
「玄関のドアが開かなくなって、車いすで何度か体当たりしてようやく開きました。寒いけれど、そのままドアを開けっ放しにしていたのです」

◆避難命令知らず
翌朝、ようやくヘルパーが安否確認に。鷲見さんは初めてマンションに倒壊の恐れがあり、避難命令が出ていることを知らされた。そして一人、取り残されていたことも。ヘルパーにおんぶされ、近くの避難所へ。
「避難所の介助態勢は? トイレは? 不安が次々と湧き、緊急時のケア態勢について全くといっていいほど無知だということを思い知らされました」

市内に住む妹と甥が捜しに来てくれ、その日のうちに妹の家に身を寄せた。マンションの安全が確認され、自宅に戻ったのは5月のことだった。

鷲見さんは県内の授産施設で作る「きょうされん宮城支部」事務局長。長年、障害者が安心して暮らせる社会をめざし運動してきた。しかし震災という極限状況は、社会の現実をあぶりだした。支援の手を広げるため被災障害者の実態把握に務めたが、行政に名簿開示を阻まれたことも。個人情報保護法が壁になった。
(続く)

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