終戦前日に米軍による無差別爆撃で多数の犠牲者を出した「京橋駅空襲」の慰霊祭が8月14日、大阪市城東区のJR京橋駅前で営まれ、遺族や地元住民ら約200人が参列した。58回を数える慰霊祭に出席した東大阪市の吉富玲子さん(80)は67年前の空襲で母と兄を亡くし、戦災孤児になった。一人助かった宿命を責めながら、「戦争を憎む気持ちと二人を亡くした悲しみが入り乱れ、今でも一年で一番泣く日です」と目頭をぬぐっていた。(矢野 宏/新聞うずみ火)
1945年8月14日午後1時過ぎ、145機のB29が大阪に来襲。目標は、東洋一の軍需工場といわれた大阪陸軍造幣廠(大阪砲兵工廠)だった。700トン以上の爆弾が投下され、うち1発の1トン爆弾が国鉄京橋駅の城東線(現・JR環状線)のガードを突き抜けて高架下の片町線ホームを直撃した。犠牲者は名前がわかっている人だけで230人、一説には500人とも600人ともいわれている。
あの日、13歳だった吉冨さんは、母(当時48歳)と城東線桃谷駅から電車に乗り込み、大阪駅に向かっていた。召集を受け、姫路の連隊に入隊する長兄(当時18歳)を見送るためだった。父はすでに病死していた。
京橋駅に到着する直前に空襲警報が鳴り、電車は上り下りとも停止。母と一緒に逃げ込んだ片町線のホーム西側の防空壕付近は避難してきた乗客でごった返していた。間もなく1トン爆弾が炸裂。駅舎は吹き飛び、がれきが乗客を押しつぶした。
ちぎれた手足や肉片が飛び散り、あちらこちらから泣き喚く声、助けを求める悲痛な叫びがしたという。吉冨さんは梁や大きな石などの下敷きになって身動きできず、何度も気を失いかけた。
「玲子、玲子」と、隣で名前を呼び続けていた母の声もやがて聞こえなくなった。窒息死だった。
その日の夕方、助け出された吉冨さんは駅近くの市立聖賢国民学校(現・聖賢小学校)の講堂に収容された。翌15日の昼過ぎ、探しに来てくれた次兄から長兄の死とともに日本の敗戦を知らされた。
「せめて一日早く戦争が終わっていたらねえ、母と兄は死ななくてすんだと思うと悔しくてねえ」
(続く)