6月23日の「沖縄慰霊の日」に合わせて、うずみ火読者と沖縄を訪ねた。ことし本土復帰40年の節目の年を迎えたが、復帰時に県民が求めた基地のない沖縄は今も実現していない。そればかりか、何度も墜落事故を起こしている米軍の大型輸送機オスプレイの配備も進められようとしている。「どこまで沖縄を差別するのか」――。戦争犠牲者への鎮魂の祈りに包まれる中で、沖縄の怒りを突きつけられた旅でもあった。(矢野 宏/新聞うずみ火)
太平洋戦争末期、日本の敗戦が濃厚となった中で始まった沖縄戦は、住民を巻き込む激しい地上戦となった。本土決戦に向けた時間稼ぎの「捨て石作戦」で、犠牲者は20万人を超えた。組織的な戦闘が集結した6月23日を、沖縄県では慰霊の日と定めている。
22日、沖縄の気温は25度。大阪や東京、北海道などから那覇空港に集まった一行は25人。チャーターした大型バスに乗り込み、「沖縄平和ネットワーク」の稲福勉さんのガイドで戦跡を目指した。
空港から国道58号を北上して宜野湾市へ。まず訪れたのは沖縄戦最大の激戦地「嘉数(かかず)高台」。1945年4月1日に読谷村(よみたんそん)の海岸などに上陸した米軍は首里を目指して南下。上陸から1週間後、この高台をめぐって日本軍との間で初めて激烈な戦闘が繰り広げられる。
「戦闘は凄惨を極めました。日本軍の兵士はタコ壷で待ち伏せ、爆雷を抱えて戦車に体当たりするという肉弾戦法を展開しました。昼間は艦砲射撃を避け、夜になって米軍の陣地に切り込みをかけました。地形が分からないから住民に案内させるなど、盾にして戦ったと言われています」
4月8日から16日間の激戦で日本軍の死傷者は6万4000人。当時の沖縄守備軍の半数を超えていた。
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