◆ 想像力を働かせて
24日の最終日は、日中の気温が30度を記録する酷暑に。一行は国道58号を北上した。
うるま市役所石川庁舎で、当時の石川市で起きた「宮森小米軍ジェット機墜落事故」の写真展が常設されている。
事故が起きたのは59年6月30日。

嘉手納基地を離陸したジェット戦闘機が民家をなぎ倒し、宮森小学校に墜落、炎上した。児童11人を含む18人が死亡、重軽傷者は210人にのぼった。当時、米軍側は「不可抗力の事故」と説明していたが、後にジェット戦闘機が整備不良だったことが判明している。

2時間目終了のミルク給食の時間で、ほぼ全児童1300人が校舎内にいた。直撃を受けた2年生の教室が最もひどく、火だるまになった子どもが水飲み場まで走り、そのまま次々と息絶えたという。
一行を迎えてくれたNPO法人「石川・宮森630会」会長の豊濱光輝さん=写真=は事故当時25歳。59年3月まで宮森小で勤務していた。事故の惨状を説明したあと、豊濱さんは「宮森を出発点にすれば、辺野古に新基地を造ることも、普天間の固定化も許してはいけない。二度と宮森の悲劇を繰り返してはいけない」と訴えた。

事故が起きる直前まで宮森小学校に勤務していた豊濱さん。

オスプレイ配備は沖縄だけの問題ではない。日米共同軍事演習などで使われれば日本全土を飛ぶことになる。米軍機が街に墜落すればどんな悲劇を招くのか。その例が53年前に起きていた。
このあと一行はキャンプハンセンを抱える金武町、オスプレイを想定したヘリパッド建設が強行されようとしている東村高江、さらには普天間飛行場の移設地として狙われ続ける名護市辺野古を訪ねた。
2泊3日という駆け足だったが、中身の濃いツアーとなった。稲福さんは別れ際、こう語ってくれた。
「6月23日の沖縄を見ていただきありがとうございました。沖縄の痛みを少しでも感じてくださったことでしょう。想像力が働けばすべては他人事ではなくなると思います」
(矢野 宏/新聞うずみ火)

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