日本に対して降伏を促すポツダム宣言が発表されたのは45年7月26日。日本は、当時のソ連に講和の仲介を依頼しており、これを黙殺。8月6日に広島、9日には長崎にそれぞれ原子爆弾が投下され、ソ連軍が満州(現・中国東北部)に侵攻する。
大阪大空襲の研究を続けた故・小山仁示関西大学名誉教授は、著書『大阪にも空襲があった』の中でこう記している。
<9日深夜からの最高戦争指導者会議は、天皇臨席の御前会議として開かれた。10日午前2時過ぎ、昭和天皇の決断で、ポツダム宣言中に天皇の国家統治の大権を変更する要求を含まないとの了解のもとに、日本政府はポツダム宣言を受諾する用意がある旨を明らかにし、それに対する返答を切望すると連合国側に通告することを決定した>
それに対して、12日には米国のバーンズ国務長官から回答があったが、今度はその解釈をめぐって最高戦争指導者会議で、これをよしとする東郷重徳外相らと、これでは国体護持は困難と主張する阿南惟幾陸相ら軍部が対立、紛糾した。天皇が決断を下し、御前会議でポツダム宣言受諾が決定するのは14日の正午だった。
ところが、和平交渉が日本側によって引き延ばされているとみた米軍は空襲を再開する。小山さんの研究によると、14日から翌15日にかけて、大阪砲兵工廠のほかに、山口県の光海軍工廠と麻里布鉄道操車場(岩国駅)、秋田県土崎の日本石油、埼玉県熊谷市、群馬県伊勢崎市が目標となり、神奈川県の小田原市も焼夷弾を落とされている。
慰霊式で焼香を終えた吉冨さんは席に着くなり、ハンカチを取り出して目頭をぬぐった。戦災孤児として生きてきた戦後を振り返って、「助けてもらった人には申し訳ないのですが、なんで一人だけ助かったのやろ。あのとき母と一緒に死んでいたら、と思うこともありましたよ」と語り、こう言い添えた。
「でも、死んだら、病死した父をはじめ、母や兄の供養をしてあげられなかったとも思うし......。せめて戦争が一日早く終わっていたら、母や兄は死ななくてすんだのですからね。そうすれば、私の人生も今とは違ったものになっていたと思いますよ」
(矢野 宏/新聞うずみ火)