水俣病特措法に基づく救済策申請の受け付けが先月末で「締め切り」となった。 病気に「締め切り」などあるはずもないのだが、国はこれをもって水俣病問題のひとつの幕切れをはかったことになる。
水俣病の公式確認から56年。患者は水俣病による障害に加え、長期化する裁判、さらには差別や偏見によって二重、三重に苦しめられてきた。
原爆症認定訴訟もまた、国の責任や認定基準をめぐって時間ばかりがすぎていった。幼い頃に被爆した原告団の被爆者たちは 、もうかなりの高齢になっている。そして、年を重ねるごとに次々と他界している。その無念を思うと本当に心苦しくなる。
広島で被爆した私の叔母も、昨年他界した。
「つらいことばかりやったよ。嫁入りした頃とか入院したときなんか、『放射能がうつる』ゆうて近所の人から言われたこともあったんよ。どうして自分がこんな目にあわないけんの、って原爆を憎んできたよ」と口にしていた。
水俣病は神経障害特有の症状がひとつの目安となった。それでも一連の裁判には半世紀もの時間が費やされた。
放射線に起因する健康被害の場合、病気の特定や、認定はさらに困難になる。今後、福島原発の事故でどれだけの規模の健康被害がでるのか、誰にもわからない。当然のことながら、国も企業も、補償は最小限にとどめようとし、事故の責任は認めようとはしないだろう。
あれだけの事故を起こしたのに、電力会社の幹部は刑事責任を問われることもなく、経営陣を退くと、そそくさと関連企業に天下りしていった。そんな企業や国の姿を、子どもたちはいま自分たちの目で見つめ、しっかりと心に焼き付けている。
原爆症訴訟の公判に、車椅子で傍聴にやってくるお婆さん。裁判所の前で、杖をつきながらビラを配るおじいさん。
将来、福島の子どもたちに同じ思いをさせていいはずがない。40年後、60年後、国は、そして社会は、福島のヒバクシャと向き合い、きちんと支えてゆくことができるだろうか。
8月6日。
広島が今年も迎えるこの日は、戦争と核の惨禍を再び繰り返さないという思いを胸に刻む日であると同時に、人間と大地が二度と放射能に苦しめられることがないよう、「ノーモア・ヒバクシャ」の誓いを新たにする日でもあるはずだ。
(玉本英子)