石丸:会ったのは元山(ウォンサン)ですか?(在日の祖国訪問団の船は元山に入った)
ヤン:いえ平壌。面会は決められた日だけだったんですけど、それじゃあオッパたちも納得しないから、毎日ホテルで私を待ってるんですよ。私はどっかに観光に行っているので、帰ってきてご飯食べるまでの10分とか5分会うために、ホテルの玄関先に来るんですよ。

部屋にも入れない。とにかく5分でもいいからヨンヒに会いたいと、待っててくれるんです。私も11年ぶりに会うので緊張もするし、「オッパたちは北朝鮮の人になってしもうたんやったら下手なこと言われへんな」というのもあった。逆にオッパたちも、「あのバリバリの親に育てられたヨンヒは、お兄ちゃんは社会主義祖国に行って立派な革命家になったと思ってるはずやから、下手なこと言うて傷つけたらあかん」と気を遣ってたんですって。

ニ回目行ったときに、「なーんや一緒やんか」って言って(笑)。ニ回目に行った時からすごくうち解けたんですけど、一回目はほんとお見合いみたいだったんですよ。

石丸:80年代半ばぐらいまでの在日の祖国訪問は不自由が多かったそうですね。
ヤン:もうね、がっちがち。

石丸:必要以上に接触を制限する。
ヤン:文化公演と博物館ばっかり行かされる。

石丸:スケジュールの最後に、ちょこっとレストランみたいな所で会うとかいうケースが多かったようですね。
ヤン:もう完全に刑務所の面会ですよね。収容所の面会っていうか。まあよく考えるとね、国全体が収容所やと思ったらすごく合点が行くんですけど。「私が何しに来たか分かってるの?」って言いたいけど、そういう訳にもいきませんから。集中できないですよね、博物館行っても。

石丸:数分間しか会えないんだったら、ほんとそわそわしますね。
ヤン:で、とにかくロビーにいつもオッパたちはいてくれて、別に文句を一言も言わないじゃないですか、もちろん。で、「ごめん、また待ってた?」、「あーかめへん、かめへん。今日も会えて良かった」とか言ってくれて。それで終わったんです。
(続く) 次へ>>

※8/4から封切りされたヤン・ヨンヒ監督作品「かぞくのくに」の上映情報です。
http://kazokunokuni.com/theaters/index.php

「北朝鮮と私、私の家族」 ヤン・ヨンヒ監督インタビュー 一覧

※在日朝鮮人の北朝鮮帰国事業
1959年から1984年までに9万3000人あまりの在日朝鮮人と日本人家族が、日朝赤十字社間で結ばれた帰還協定に基づいて北朝鮮に永住帰国した。その数は当時の在日朝鮮人の7.5人に1人に及んだ。背景には、日本社会の厳しい朝鮮人差別と貧困があったこと、南北朝鮮の対立下、社会主義の優越性を誇示・宣伝するために、北朝鮮政府と在日朝鮮総連が、北朝鮮を「地上の楽園」と宣伝して、積極的に在日の帰国を組織したことがある。朝鮮人を祖国に帰すのは人道的措置だとして、自民党から共産党までのほぼすべての政党、地方自治体、労組、知識人、マスメディアも積極的にこれを支援した。
ヤン・ヨンヒ(梁英姫)
映画監督。64年11月11日大阪市生まれ。在日コリアン2世。済州島出身の父は大阪の朝鮮総連幹部を務めた。朝鮮大学校を卒業後、大阪朝鮮高校の教師、劇団女優を経てラジオパーソナリティーに。95年から映像作家として「What Is ちまちょごり?」「揺れる心」「キャメラを持ったコモ」などを制作、NHKなどに発表。97年から渡米、6年間NYで過ごす。ニュースクール大学大学院メディア学科にて修士号取得。日本に住む両親と北朝鮮に渡った兄の家族を追ったドキュメンタリー映画「ディア・ピョンヤン」(05年)、「愛しのソナ」(09年)を監督。著書に『ディア・ピョンヤン―家族は離れたらアカンのや』(アートン新社・06年)、『北朝鮮で兄(オッパ)は死んだ』(聴き手 佐高信・七つ森書館・09年)、『兄―かぞくのくに』(小学館・2012年)。
「ディア・ピョンヤン」で、山形国際ドキュメンタリー映画祭アジア千波万波部門特別賞、ベルリン国際映画祭フォーラム部門最優秀アジア映画賞(NETPAC賞)、サンダンス映画祭審査員特別賞、第8回スペイン・バルセロナ アジア映画祭最優秀デジタル映画賞(D-CINEMAAWARD)を受賞。
「かぞくのくに」で、ベルリン国際映画祭アートシアター連盟賞、パリ映画祭人気ブロガー推薦作品賞を受賞、他現在も各国の映画祭から招待が続いている。

 

★新着記事