ヤン・ヨンヒ監督と石丸次郎 (撮影ナム・ジョンハク/アジアプレス)
ヤン・ヨンヒ監督と石丸次郎 (撮影ナム・ジョンハク/アジアプレス)

 

◆互いの心の傷に
ヤン:で、オッパ、ほっとした顔したんですよ、私が断った時。あの映画のシーンはね、私が断った時のセリフそのまま使ってるんです。「オッパの上の人に、僕の妹は僕らの敵ですって言うといて」って。その後でね、「(スパイを頼む相手の)ミスキャストやなあ、キャスティングめっちゃ間違うてるやん。センスないなあ。それぐらい見抜きいや、そっちの人も」って言ったんですよ、私。

石丸:さすがヤンさんだ。
ヤン:「この女だけは気をつけなあかんくらいに見といてもらわな困るわ」くらいに言うといたんですよ、私。そしたらオッパ、クスッとふき出して、「自分の意見はっきり言って、カッコええやんけ」って言ったんですよ。そして「分かった」って。私は「すぐ忘れるから今の話。アボジ(お父さん)、オモニ(お母さん)にも言わへんし」って言って。でも、その時、絶対に今の会話を忘れられないだろうな、すごい傷になるだろうなって思いました。その後やっぱりね、末のオッパと私、関係変わってますね。やっぱりよそよそしくなってしまいました。それはね、断ったからとか、あんな話したからじゃなくて、やっぱり傷付けた、お互いが傷ついた。相手よりも自分を優先して、オッパはその話したし、私は断ったっていうのがどっかにあるんだと思います。
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※8/4から封切りされたヤン・ヨンヒ監督作品「かぞくのくに」の上映情報です。
http://kazokunokuni.com/theaters/index.php

「北朝鮮と私、私の家族」 ヤン・ヨンヒ監督インタビュー 一覧

※在日朝鮮人の北朝鮮帰国事業
1959年から1984年までに9万3000人あまりの在日朝鮮人と日本人家族が、日朝赤十字社間で結ばれた帰還協定に基づいて北朝鮮に永住帰国した。その数は当時の在日朝鮮人の7.5人に1人に及んだ。背景には、日本社会の厳しい朝鮮人差別と貧困があったこと、南北朝鮮の対立下、社会主義の優越性を誇示・宣伝するために、北朝鮮政府と在日朝鮮総連が、北朝鮮を「地上の楽園」と宣伝して、積極的に在日の帰国を組織したことがある。朝鮮人を祖国に帰すのは人道的措置だとして、自民党から共産党までのほぼすべての政党、地方自治体、労組、知識人、マスメディアも積極的にこれを支援した。
ヤン・ヨンヒ(梁英姫)
映画監督。64年11月11日大阪市生まれ。在日コリアン2世。済州島出身の父は大阪の朝鮮総連幹部を務めた。朝鮮大学校を卒業後、大阪朝鮮高校の教師、劇団女優を経てラジオパーソナリティーに。95年から映像作家として「What Is ちまちょごり?」「揺れる心」「キャメラを持ったコモ」などを制作、NHKなどに発表。97年から渡米、6年間NYで過ごす。ニュースクール大学大学院メディア学科にて修士号取得。日本に住む両親と北朝鮮に渡った兄の家族を追ったドキュメンタリー映画「ディア・ピョンヤン」(05年)、「愛しのソナ」(09年)を監督。著書に『ディア・ピョンヤン―家族は離れたらアカンのや』(アートン新社・06年)、『北朝鮮で兄(オッパ)は死んだ』(聴き手 佐高信・七つ森書館・09年)、『兄―かぞくのくに』(小学館・2012年)。
「ディア・ピョンヤン」で、山形国際ドキュメンタリー映画祭アジア千波万波部門特別賞、ベルリン国際映画祭フォーラム部門最優秀アジア映画賞(NETPAC賞)、サンダンス映画祭審査員特別賞、第8回スペイン・バルセロナ アジア映画祭最優秀デジタル映画賞(D-CINEMAAWARD)を受賞。
「かぞくのくに」で、ベルリン国際映画祭アートシアター連盟賞、パリ映画祭人気ブロガー推薦作品賞を受賞、他現在も各国の映画祭から招待が続いている。

 

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