社会変革の道具たりえる可能性
北朝鮮当局は、長い時間をかけて民衆同士を徹底してばらばらにしてしまった。相互監視密告システムを国の隅々にまで設けた。幼稚園に入った時から組 織生活に参加させられる。私的な集まりは同窓会はおろか、朝鮮民族が重視する氏族の集まりすら作ることは許されない。政治犯罪に問われると、家族親族にま で累が及ぶ連座制も緩む気配はない。恐怖鉄拳統治の度合いは、北朝鮮を横綱とすると、政変のあった中東諸国家は幕下ぐらいの違いがあると思う。
北朝鮮で、なぜデモや暴動やクーデターが起きないかとよく問われる。多くの理由があるが、一言で言うと、上記のようなシステムをもって、徹底して人と人を分断し管理してきたからだ。謀は議なくして起こりえない。北朝鮮では隣人と相談すらできなかったのだ。
近い将来に中東の政変劇のように、インターネットと携帯電話が政権を揺り動かす可能性はほとんどないだろう。ただ大きな流れとして、新しいデジタ ル・IT技術が、これまでありえなかった通信手段とメディアを、民衆の手にもたらしつつあるのは、見てきたとおり確かである。世界最強の情報鎖国にあっ て、この一〇年間、壁にいくつも風穴が開いたのは、VCDやパソコンの普及など、間違いなくデジタル・IT機器の出現に負うところ大なのである。
北朝鮮当局は、当然この「デジタルの脅威」を認識している。あの手この手で懸命に規制をかけ、罰を科しているが、デジタル・IT機器による違法な情 報流通を根絶できないでいる。その理由は、一つ目には情報が市場のメカニズムを通じて拡散していることがある。政治的な動機ではなく、利益を得たいという 経済的動機によって、この情報市場には次から次に人が参加してくる。それを統制では止めきれないでいるのだ。
先に触れたVCDの普及が典型的な例だ。市場 を形成する需要は人々の「知りたいという好奇心」が作り出している。二つ目の理由は、取り締まる官吏たちの困窮と腐敗だ。保安員(警察官)や役人たちに は、貧しい配給にコメ一キロ程度しか買えない安月給しか与えられていない。賄賂をどうしても受け取らなくては、暮らしていけない。要するに、北朝鮮式社会 主義経済システムが機能不全に陥って、権力の社会統制力が弱体化してしまったことが、「デジタルの脅威」を食い止められない根本原因なのだ。
さて、今後の見通しだが、若い「指導者」金正恩氏の体制も「デジタルの脅威」と闘う姿勢を続けていくと思われる。だが、それでは改革開放とは真逆の 方向に向かうということになる。すると、深刻な経済難を克服することは極めて困難になり、政権の社会統制力はさらに弱体化が進んでいくことになるだろう。 北朝鮮政権は、世界のデジタル・IT化の潮流自体に抗うことはできない。「デジタルの脅威」は時とともに力をつけていき、新体制を揺さぶる存在に成長する 可能性がある。
(この項、おわり)