◆景山佳代子のフォトコラム
以前も登場した友人ラウル(仮名)の話しを。
その日、私たちは近所のピザ屋に行って2~3時間は話しこんでいた。ラウルは、私がこれまでに行った外国のことを聞きたがった。私はキューバの「いいところ」を彼に伝えたい気持ちもあり、海外でみた「子ども」のことを話した。
キューバでは、働く子どもや、通りで物乞いをする子どもをみかけない。でもある国では、地べたに座りこみ、一日中、お金を恵んでくれと手を差し出している子どもがいた。隣りでは母親と思しき女性が子どもと同じように物乞いをしていた。6歳位の男の子はラフティングツアーのガイドとして働いていた。
彼はラフティングの際に使う、ボートやオールを保管している倉庫の床で寝起きをしていた。また私がホームステイした家では、8歳位の女の子が家政婦として働いていた。ある朝、早く目覚めて部屋のドアを開けると、この女の子が部屋の前の廊下で寝ていた。聞けば、廊下が彼女の寝場所なのだという。
ラウルはショックを受けたように、「なんで子どもが働いているんだ?その子たちはどうして学校に行かないんだ?」と聞いてきた。
貧困、宗教的身分(カースト)、移民であるため......。私はとりあえず、自分が見てきたなかで伝えられる理由を彼に話した。その直後のラウルの一瞬の仕草を私は忘れられない。
彼は真剣な面持ちで私の話しを聞いたあとに、「あぁ」と苦しそうな声をもらし、天を仰いで素早く十字を切って祈りを捧げたのだ。
様々な情報がシャットアウトされ、海外への渡航も制限されているキューバ人である彼には、子どもが学校に行けない、働かなくてはならないという世界が、信じがたいものであるようだった。直接、そういう子どもたちを見てきたはずの私より、ラウルの方がずっとこの「現実」に心を痛めていた。
今度は私のほうがショックを受けた。彼はこんな現実が「あってはならないこと」だと理屈抜きに分かっていた。私はどこかでそんな現実、あるいは「情報」に馴れきっていた。だけどそれは当たり前じゃないし、当たり前だと思ってはいけない。
ラウルがそれを教えてくれた。