■8・6ヒロシマ大行動
広島県立総合体育館で開かれた「8・6ヒロシマ大行動」の集会で、佐々木澄江さん(73)が被爆体験を語りつつ、福島への思いを語った。
佐々木さんは6歳のとき、西観音町(現・西区)の自宅で被爆した。爆心地から1.3キロ距離だった。
「突然、家の廊下の白いカーテンが真っ黄色に光りました。次の瞬間には目の前が真っ暗になり、煙や埃にまみれていました」
爆風で家は潰されていた。ほどなく職場から駆けつけた父と一緒に家族4人で己斐町(現・西区)へ一時避難したが、2週間後には焼け跡へ戻ってきた。
「焼け焦げたトタンやがらくたを拾い集めて父がバラック小屋を建てました。工場の大きな煙突が1本焼け残り、夜はとても恐く感じましたが、辺りにキラキラ輝くたくさんの星がとてもきれいでした」
焼け跡での生活は沼田町(現・安佐南区)に知人を頼って引っ越しをするまで続いた。
原爆投下から2、3年すると、父親の体調が日増しに悪化していく。白血病だった。「ピカドンさえなけりゃあのう」というのが口ぐせで、50年に血を吐きながら死んだという。
放射線被爆による「後(こう)障害」。被ばく後に速やかに生じる急性障害とは異なり、数年ないし、数十年後に出現する放射線障害である。広島市によると、被爆後5、6年が経過した50年ごろから白血病患者が増加し、55年頃からは甲状腺ガン、乳ガン、肺ガンなど悪性腫瘍の発生率が高くなり始めたという。
被爆から58年後、佐々木さんは乳がんを患う。再発するのではないか、と今でも不安感に包まれているという。
「福島の子どもたちのことが心配です。5年、10年後、何が起きるかわかりませんから。しかも、きちんとした検査も受けられていないと聞きました」
佐々木さんはあいさつをこう締めくくった。
「国の政策で原発を進め、事故が起きると責任のなすりあい。事故は収束していないのに、休止していた原発を再稼働させたことに怒りを感じます。核兵器廃絶、再稼働反対という大きな声を上げないと国は動きません」
(矢野 宏/新聞うずみ火)