「祖国訪問」を終えて日本に帰る時。ウオンサン港を離れた船のデッキから、港で見送る息子たちに手を振るヤン監督のお母さん。2001年。

◆家族を犠牲にしてでも
ヤン:『ディア・ピョンヤン』作った時、家族に迷惑かからないようにするにはどうしたらいいかと思いながら構成考えたり、言葉選んでナレーション作ったりしましたけど、でも正直な部分も出したい。実際には、いくら気を付けても、家族の安全保証に「絶対」はないじゃないですか。私がいきなり、ジョンウン様万々歳の映画でも作らない限りは、これ払拭できないと思うんですよ。でも、作りたいっていうか、なんか吐き出したいっていうか、そっちの方が勝っちゃってるんですよね。

石丸:だんだん、家族の心配より映像制作者として表現したい欲求が強くなってきたわけだ。
ヤン:そう。だから、昔はとてもじゃないけど、「兄貴たちに迷惑がかからないように考慮して作ってます」としか言えなかったけど、最近は変わりました。申し訳ないけど、家族に迷惑かかっても作ります。オッパ(=お兄ちゃん)たちが収容所に入れられますけど、どないしますか?って言われたとしても、やっぱり、私、やめますって言わないと思う。だってそこでやめたら、オモニらと一緒になるんですよ。もうええやんそれは、そんな時代は終わりにしようって本当に言いたい。そのためには、まだ何人犠牲になるか分からないけど。

石丸:自分のやりたいこと、表現したいことを我慢させられのは、もう堪忍してということですね、たとえ軋轢が起こったとしても。
ヤン:今実際、犠牲になってます。うちのオモニ、やっぱりすごい板ばさみになってる。総連の人から冷たくされてるし。うちのアボジ(=お父さん)の葬式のときにね、中央の教育会からは弔電来たけど、総連の中央から弔電来なかった。オモニいまだに怒ってますけどね。娘が問題児なのは分かるけど、それ差し引いても評価されてもええぐらい、うちのアボジは実績残したはずなんです。大阪の朝鮮学校の助成金すごく増やしましたし。
(続く)

※8/4から封切りされたヤン・ヨンヒ監督作品「かぞくのくに」の上映情報です。
http://kazokunokuni.com/theaters/index.php

「北朝鮮と私、私の家族」 ヤン・ヨンヒ監督インタビュー 一覧

※在日朝鮮人の北朝鮮帰国事業
1959年から1984年までに9万3000人あまりの在日朝鮮人と日本人家族が、日朝赤十字社間で結ばれた帰還協定に基づいて北朝鮮に永住帰国した。その数は当時の在日朝鮮人の7.5人に1人に及んだ。背景には、日本社会の厳しい朝鮮人差別と貧困があったこと、南北朝鮮の対立下、社会主義の優越性を誇示・宣伝するために、北朝鮮政府と在日朝鮮総連が、北朝鮮を「地上の楽園」と宣伝して、積極的に在日の帰国を組織したことがある。朝鮮人を祖国に帰すのは人道的措置だとして、自民党から共産党までのほぼすべての政党、地方自治体、労組、知識人、マスメディアも積極的にこれを支援した。
ヤン・ヨンヒ(梁英姫)
映画監督。64年11月11日大阪市生まれ。在日コリアン2世。済州島出身の父は大阪の朝鮮総連幹部を務めた。朝鮮大学校を卒業後、大阪朝鮮高校の教師、劇団女優を経てラジオパーソナリティーに。95年から映像作家として「What Is ちまちょごり?」「揺れる心」「キャメラを持ったコモ」などを制作、NHKなどに発表。97年から渡米、6年間NYで過ごす。ニュースクール大学大学院メディア学科にて修士号取得。日本に住む両親と北朝鮮に渡った兄の家族を追ったドキュメンタリー映画「ディア・ピョンヤン」(05年)、「愛しのソナ」(09年)を監督。著書に『ディア・ピョンヤン―家族は離れたらアカンのや』(アートン新社・06年)、『北朝鮮で兄(オッパ)は死んだ』(聴き手 佐高信・七つ森書館・09年)、『兄―かぞくのくに』(小学館・2012年)。
「ディア・ピョンヤン」で、山形国際ドキュメンタリー映画祭アジア千波万波部門特別賞、ベルリン国際映画祭フォーラム部門最優秀アジア映画賞(NETPAC賞)、サンダンス映画祭審査員特別賞、第8回スペイン・バルセロナ アジア映画祭最優秀デジタル映画賞(D-CINEMAAWARD)を受賞。
「かぞくのくに」で、ベルリン国際映画祭アートシアター連盟賞、パリ映画祭人気ブロガー推薦作品賞を受賞、他現在も各国の映画祭から招待が続いている。

 

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