◆景山佳代子のフォトコラム
まったく見知らぬ人から、街中で突然、敵意を向けられる。
私は人生初のその瞬間を、一日の中でも最高に楽しみなランチタイムで経験した。
いつもの屋台。たくさんの人に混ざって定食が出てくるのを待っていると、一人のおじいさんが私の前に立ちふさがった。
身長の高くない私でさえ少し見下ろす位の小柄なおじいさん。私を見る目の焦点が合わない。少しおかしいなぁ、と思ったとき突然、
「チーナ(中国人)、×××××」と叫びながら、右手の親指を立て、ゆっくりと首を切る仕草を見せつけた。
ガヤガヤと賑やかだった屋台のお客さんたちの視線を一斉に集めているのが痛いほど分かった。
おそらく一瞬のことだったかもしれないが、どう対応するか瞬時にいろんな考えがめぐった。
1)殴る→周りのお客さんを一斉に敵に回してしまうかも。やめとこう。
2)「no soy china, soy japonesa(中国人ちゃうわ、日本人じゃ)!」と言い返す→問題の根本は私が中国人か日本人かじゃない。却下。
結局、最後に出た答えは、このおじいさんの目を黙って真っすぐ睨み続ける、だった。
おじいさんは黙って睨み続ける私との間がもたなくなったのか、そそくさとその場を立ち去った。
屋台にいた他の客は、何事もなかったかのように食事の時間へと戻り、私は一人、取り残されたような気分でその場に立ち尽くしていた。
キューバは、黒人や白人、ムラート(白人と黒人の混血)やメスチソ(白人と先住民の混血)など様々な人種の人たちが入り混じって暮らしていて、南米の中でも人種差別の少ない国として知られている。
そんな多人種の暮らすキューバでも、東洋人は顔つきも肌の色も明らかに異質な「新参者」だ。なかでも「中国」の存在感は大きい。テレビをつければ南米の番組と同じくらい中国の番組が流れている。観光バスに乗れば中国製、台所におかれた調味料も中国製。よく分からない新参者が、自分たちの社会を席巻している。そんな気分があるようだった。
でもこれらはすべてメディアや商品を介したイメージとしての「中国」。名前をもった、生身の人間である「中国人」とは、必ずしもイコールではない。
このおじいさんが、私を「東洋人」や「中国人」というカテゴリーを通してではなく、ただ一人の人間として見てくれていたなら、と想像してみる。
私たちは立ち呑みのカウンターでラム酒を酌み交わし、バカ話で盛り上がっている。ほろ酔い気分になって、私が思わず歌いだす。曲は、ブルーハーツの「青空」がいい。
日本で日本人として暮らしていた私は、自分のこととして「人種差別」を経験したことはなかった。でもこの事件のおかげでよく分かった。一人一人の人間を、人種や国籍、民族といった囲いの中に押し込めるなんてくだらない。失うものは多くても得るものは何一つない。そんなものに振り回されない生き方を、私たちは選ぶことができると思う。