【連載開始にあたって 編集部】
悪の枢軸、テロ支援国家、核開発......。国際社会で暗いイメージばかりが先行する中東の大国イラン。この国を旅し、その姿に魅せられた旅人・大村一朗は、次にジャーナリストとして、この国とそこに暮らす人々の本当の姿を伝えることを決意し、2004年2月、単身イランに移り住みました。大村は、イラン国営ラジオの日本語放送アナウンサーとしても、6年を過ごすことになります。
無計画なこの移住に、その後妻が加わり、夫婦でイラン社会と格闘する日々が始まります。そして長男が生まれると、一家総出で異文化と交わり、隣人たちの暖かい眼差しの中で、穏やかな暮らしが紡がれてゆきます。
大村が見るイラン、妻が見るイラン、そして4歳までをイランで過ごした一人息子が見たイランは、それぞれに全く異なるものでした。それらをつなぎ合わせた8年間の家族の物語、イランの物語を大村が綴っていきます。

 

テヘランは路線バス、路線タクシー網が発達しているが、2004年当時、訪れたばかりの外国人が乗りこなすのは至難のわざだった。しかしそれも、その後の5年間で、バス路線やタクシーステーションの完備、民営バスや市内高速バス路線の導入など、すばらしい発達を遂げてゆく。
テヘランは路線バス、路線タクシー網が発達しているが、2004年当時、訪れたばかりの外国人が乗りこなすのは至難のわざだった。しかしそれも、その後の5年間で、バス路線やタクシーステーションの完備、民営バスや市内高速バス路線の導入など、すばらしい発達を遂げてゆく。

 

◆「デホダ」への遠い道のり
テヘランには、外国人を受け入れるペルシャ語学校が一つしかない。テヘラン大学国際ペルシャ語センター、通称「デホダ」だ。テヘラン市街北部にあるこの学校には、諸外国から来た留学生、駐在員、イラン人と結婚した外国人女性など、様々な立場、年齢層の外国人がペルシャ語を学んでいる。

私も日本を出発する前にすでにこの学校への入学手続きを終えていた。この学校で一年、四学期を修了することが当面の目標だ。

翌朝、市街西部の町外れにあるWさん宅を出発する。デホダまでの道のりは遠い。まずはアパートの前で乗り合いタクシーを拾って最寄りのバスターミナルまで行き、そこでミニバスに乗り替える。ミニバスはすし詰め状態で、つり革もなく、立つと掴むところがほとんどない。デホダの最寄りのバス停まで、苦しい体勢で小一時間耐える。

通学初日のこの日、入学手続きだけと思っていたら、思いがけずクラス編入のための実力テストをやらされた。恐らく簡単な文法問題ばかりなのだろう。しかし、私がペルシャ語で埋めることが出来たのは、一番上の氏名の欄だけだった。自分のペルシャ語力などはなから知れていたが、白紙答案を提出するのはさすがに恥ずかしい。

明日から「クラス1」でのスタートが決まった。
帰路もラッシュアワーで、座れることなど期待できそうになかった。そしてようやく着いたバスターミナルで、最後の乗り合いタクシーを拾うのに、もうひと苦労。

2004年当時のテヘランの公共交通機関はカオスと言ってよかった。バスの路線図はどこにも存在せず、目当てのバスに乗り込むのに、運転手をはじめ何人もの人に大声で、それがどこ行きなのか尋ねなければならなかった。

バスには番号も行き先も表示されているが、それを信じて乗って、とんでもないところへ連れて行かれたのは一度や二度ではない。イラン人でさえバスに乗る前には必ず運転手に行き先を確認してから乗る。そして、降りるバス停が近づくと、「降ります!」と大声で叫ばなければ、バスは停まらない。外国人がおかしな発音で「降ります!」と叫べば、満員の乗客が一斉に好奇の視線を向ける。そのたびに私は恥ずかしさでその場から消えてしまいたくなる。

タクシーをつかまえるのも容易ではない。もう30年近くモデルチェンジをしていない古ぼけた国産車が目の前でスピードを緩めたら、それが「乗るか?」の合図だ。タイミングを逃さず自分の行き先を大声で叫ぶ。

行き先が合えば、車は停まる。だが、私がいくら叫んでもタクシーは停まってくれない。私の発音が悪いせいか、大抵の運転手は怪訝な顔つきをしながら走り去るのが常だった。

言葉も分からず、文字もろくに読めず、私は毎日のように街のどこかで無力感に打ちひしがれていた。自分の行きたい場所に行く、それだけのことがなぜこんなにも大変なのか。

路線図を見て、券売機で切符を買って電車に乗り込めば、あとは居眠りしていても目的地に連れていってくれる。そんな当たり前の日本の暮らしが楽園のように思えてくる。機械や自動音声を相手にすべてが事足りてしまう、他人との接触を極力省ける効率化を追求したのが都会の暮らしだとすれば、ここは非効率の極地だ。

人口700万余の西アジア屈指の大都市で、バス一つ乗るのにいったい何人に声をかけ、親切にされたり、不親切にされたりして一喜一憂しなければならないのだろう。

くたくたになって夜遅く、家に帰り着く。Wさんの9歳の娘サラが笑顔で迎えてくれると、それまでの疲労と緊張が一瞬で吹き飛ぶ。だが、一人布団にもぐりこむとき、また明日も出かけなければならないのかと思うと気が滅入る。

私は外出にほとほと嫌気がさし、なかば鬱状態になりかけていた。旅とはなんと気楽なものだろう。いやならその町を出てゆけばよいのだから。しかし私は生活者となった。ここで生きていかなければならないのだ。

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