◆テヘラン大学学生寮23号棟
Wさん宅での生活が一週間を迎えた頃、私はこの家を出ることにした。Wさんのご主人Jさんが仕事でほとんど家に帰宅しないため、実質、Wさんと子供だけの家に私が泊まっていることになり、それは倫理上いささか、イスラムのイランでは尚のこと、都合の悪いことだったからだ。
幸い、私はテヘラン大学の学生寮に移り住むことが出来た。市中心部にあるその学生寮からなら、デホダまでバス一本で行け、通学時間も30分ほどで済んだ。
学生寮は大学そのものと見まがうほど広く、敷地内には生活棟、スーパーマーケット、大小の食堂、パン屋、学習室、インターネットルーム、小さな映画館、そして理髪店まで、学生生活に必要な施設が一通り揃っていた。
私が暮らすことになった23号棟は、敷地のどんづまりにある留学生専用の生活棟だった。この23号棟だけで二人部屋が70室ある。東は東南アジアから西はアフリカまで、世界中のイスラム諸国から集まった優秀な留学生が暮らしている。とりわけ、ダリ語などのペルシャ語の派生語がネイティブに話されるタジキスタンやアフガニスタン。
イランと同じシーア派が多く住む一部のアラブ諸国。そして旧ユーゴスラビアやスーダンなど、イランと友好関係を結ぶ国々からの留学生が多い。いずれの国からであれ、学生たちはみな流暢にペルシャ語を話し、誰も英語など使っていない。
私のルームメイトは、サルーという名の色白で華奢なタジキスタン人青年だった。明るく世話好きで、私が困っていないかいつも気にかけてくれるやさしい男だ。彼はその人柄から友人が多く、夕食はいつも、友人の誰かが作ったフライパンの炒め物を皆でつつきながら賑やかに食べることになる。
そんなとき、もちろん私は彼らのペルシャ語の会話に入り込めない。一人、黙々と食べながら聞いているだけだ。そんな私を気に掛け、サルーやその友人たちが英語で話しかけてくる。
「お前だけ会話に入れなくて申し訳ない。でも、今はひたすら聞くことに専念しろ。それが一番の勉強になる」
「そのうち記憶に残る単語が一つ二つと増えてくる。そうしたら、恥ずかしがらずにその意味を質問しろよ」
彼らも同じ苦労をしてきたから、私の居心地の悪さを理解していた。
◆胸の秘めた野望
一ヶ月が過ぎ、寮生活がようやく軌道に乗り始めた頃、ルームメイトのサルーはここでの4年間の学生生活にピリオドを打ち、母国タジキスタンへと帰っていった。彼がいなくなり、私の部屋を訪ねてくる学生も減ったが、共同キッチンで自炊していると誰彼となく「部屋で一緒に食おう」ということになる。
なかでもよく食事をともにしたのが、スーダン人のヘイサムだった。冗談ばかり言っては腹の底から苦しそうにヒーヒーと笑う男で、いつも寮のどこからか、彼の甲高い笑い声が聞こえていた。
しかし、ヘイサムという男は、その明るい人柄とは裏腹に、未来を語るときはどうしようもなくネガティブ思考な人間だった。彼はすでに学位を取得済みだが、内戦さなかの故国に帰ってもしかたがないので、出たくもない授業に出て、無駄に時を費やしているという。彼の部屋で夕食後、私にお茶を入れながらヘイサムは言った。
「4年もこんなところにいて、何もいいことなんかなかったよ。ペルシャ文学の学位なんか取って、国に帰って何になる? 俺はみじめなやつさ」
じゃあどうしたいんだ? と訊くと、「アメリカへ行きたい」と言う。
「お前もか......」と私は思わずため息を漏らした。サルーもアメリカ行きを目論んでいたからだ。しかしその夢はかなわず、彼はタジキスタンへ帰国後、モスクワ留学に進路を変えていた。
「アメリカなんかへ行ってどうするんだ?」
「わからないよ。ただ子供の頃からの夢だったんだ。とにかく、国に帰っても仕方ないし、ここにいても意味がない。先進国に行けさえすれば......。この気持ちは先進国から来たお前にはわからないだろうけどな」
ヘイサムはアメリカにグリーンカードを申請しているが、星をつかむような確率だという。金さえあれば留学も可能だが、同じ途上国のイランに留学するのと、先進国に留学するのとでは訳が違う。途上国の若者たちの夢を、先進国はやすやすとは受け入れない。
「俺、一つ考えていることがあるんだ」
ヘイサムが急に真面目な顔つきで言った。
「この夏、俺は一つの決断を下す。奨学金制度の特典で、夏、一時帰国のための航空券が支給されるんだけど、同じ金額なら別の国に行ってくることも出来るんだ。今回、アムステルダムに行こうと思う。そこでパスポートを捨ててしまおうかと考えているんだ」
テヘラン大学学生寮23号棟。ここに集うのは、世界のイスラム諸国から集まり、いずれは母国を担う輝かしい未来を持った優秀な留学生たち、というイメージは私の勝手な思い込みだった。彼らの多くにとってここでの留学生活は、途上国出身という一つの階級から抜け出すためのワンステップに過ぎない。
いや、ワンステップにすらならないかもしれないという不安を抱えながら、そのはるか頭上にある見えない壁を打ち破ろうと、ひそかな野望を胸に秘めているのだ。