◆テヘラン物件事情

相方をイランに呼び、一緒に生活するため、私は5月の半ば頃から不動産屋まわりを始めた。大学には夫婦寮もあったが、そこは大学院の正規の学生用で、私のような語学研修生は入居できないのだった。

「不動産屋」というペルシャ語を覚えてみると、これまで何の事務所だろうと思っていたほとんどのものが不動産屋だった。イランは今、土地バブルの真っ只中。不動産投機がさかんに行われている。商店街を歩けば、至るところに「マスキャン(住まい)」などの文字を掲げた看板が見つかる。そのうちの一軒に入ってみた。
「アパートを探しているのですが」
「借りるのか? 買うのか?」
「借ります」
「いくらだ?」
イランでのアパートの借り方は、日本のそれとは少し違う。不動産屋で「いくらだ?」と訊かれるとき、それは入居時に大家に支払う保証金と、月々支払う家賃の二つを意味する。

「保証金は500万トマン、家賃は3万トマンほどで......」
「ないね」
そこはタジュリーシュと呼ばれる山の手の繁華街で、私が通うデホダも近い。だが、この近辺の相場は私の希望金額の倍近いことが次第にわかってきた。

イランで初めてアパートを借りたエンゲラーブ広場。あらゆる種類の店が軒を並べるが、テヘラン大学の学生街として、映画館や、書店街がすぐそばにあるのが気に入った。
イランで初めてアパートを借りたエンゲラーブ広場。あらゆる種類の店が軒を並べるが、テヘラン大学の学生街として、映画館や、書店街がすぐそばにあるのが気に入った。

 

テヘランという町は、北にエルブルース山脈を戴き、市街地は南へ向かってなだらかに下っていく。タジュリーシュは背後に急な山肌が迫り、南部の町並みを見下ろす最も北寄りに位置する街区であり、外国人や政府要人はもちろん、この国で上流意識を持つ人々が多く住む。緑が多く、山からの清冽な雪解け水がいたるところに流れている。

町ゆく人の装いも明るく、洗練されている。特に女性は下町の南部に比べて、カラフルなスカーフを纏い、タイトで露出度の高い服装をしている人が多い。本来は完全に頭髪と首元を隠すべきスカーフは、まとめた後ろ髪にひっかける程度で、七部袖の腕もあらわに、襟足は大きく開き、素足にサンダル履きが当たり前だ。

それは、この付近が単に山の手であることを意味するに留まらず、聖職者による統治という国是と厳格なイスラム法をよしとせず、自由な空気を求める富裕層が存在していることを意味していた。

ところで、私の言い値である保証金500万トマンとは、日本円で約60万円である。家賃3万トマンは4000円ほどだ。保証金は退去時に全額返還される。大家は契約期間中、この保証金を銀行に預け、年率20パーセント近い高金利によって、まとまった収入を得ることが出来る。

大家と交渉して保証金を安くしてもらい、代わりに月々の家賃を高くするという支払い方もある。これも交渉次第だが、大家としては、家賃の滞納を恐れ、できるだけ保証金を多く取ることで確実な収入に結び付けたいという計算がある。

私のアパート探しは、学校から次第に遠ざかる不安を諦めに変えながら、南へ南へと下っていった。南下するにつれて、家賃もわずかずつだが下がっていく。
ところで、500万トマンとはイラン人の平均年収のおよそ4倍に相当する。仮に保証金100万トマンの物件があったとしても、この国の若者に容易に用立てられる金額ではない。

一体この国の学生や、夢を抱えて都会に出てきた若者たちは、どうやって住む場所を確保しているのだろう。なかには同じ目的を持った者同士が何人か集まってお金を出し合い、部屋を借りるケースもあるらしいが、若者の気軽な一人暮らしは相当な資産家の子弟でもないかぎり無理なようだ。

したがって、かれらが親元を離れて暮らし始めるのは、学生として大学の寮(もちろん相部屋)に入るか、徴兵され軍隊に入るか、結婚を契機にした場合にほぼ限られる。

イラン人の結婚は一般的に、花嫁が家財道具一式を、花婿が住居を用意する。婚約はしたものの、住むところを用意できないため、正式な結婚に踏み切れないカップルも多い。私と相方がかつてそうだったように、貧乏な若い男女が四畳半一間で同棲を始めるというような気楽なことはできないのである。

なぜなら、結婚は互いの家の面子のかかった、おおがかりなものだからだ。「あ~、俺も結婚したいよ。金さえあればなあ」と友人のイラン人がしきりにぼやいていたのが思い出される。唯一の例外は、大学院や企業の夫婦寮に入居することだが、当然人気が高く、数年先まで空きはない。

そうした要因もあり、小さな物件というもの自体が存在しない。「狭い部屋でいい」といくら言っても、紹介されるのは70~80平米の物件ばかり。もっともイランでは、子供のいない夫婦にとって、それは決して大きすぎる物件ではないのである。

アパート探しはさらに南下し、テヘラン市街を東西に貫くアザディー通りにまで近づくと、イラン人の友人たちが心配し始めた。
「アザディー通りより南には行くなよ」

テヘラン市民にとって、アザディー通りは町を「南」と「北」に分ける明らかな境界線であるらしい。その一線より下、つまり南部は、「治安が悪い」、「文化がない」、「人の住むとこじゃない」とこきおろす人もいる。

私はアザディー通りの南側でも物件を探した。アザディー通りにあるエンゲラーブ広場からなら、片道1時間かかるが、学校までバス1本で行くことが出来たからだ。さらにもっと南へ下れば、より安くて小さな部屋が見つかったかもしれない。

それに南部こそ、元来テヘランの中心であり、人情あふれる下町である。200年近い歴史を持つバザール地区もこの南部にあり、一歩路地裏に入れば、入り組んだ小道に古い土壁の家々が連なる昔ながらの生活がある。しかし、学校に通う私にとっては、このエンゲラーブ広場がぎりぎりの線だった。

6月に入り、私はエンゲラーブ広場のそばにようやく希望通りの物件を見つけた。そこはアザディー通りから小道を一本北に折れたところにあった。
路肩の溝には北部を潤したあとの汚水が勢いよく流れ、さらに南部へと、付近のゴミを押し流していた。

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