◆妻のイラン初体験
妻がイランに到着したその夜、私は突然、高熱を出してダウンした。体中にでこぼこのじんましんが広がり、翌朝には脱皮するかのように、ぼろぼろと身体中の皮が向けた。今までまったく経験のない不気味な症状ながら、熱がすぐに下がり始めたので、医者には行かなかった。

人は安心し、ぷつりと緊張の糸が途切れると、身体に変調をきたすものなのかもしれない。数ヶ月ぶりに妻の顔を見たことで、いままでそれと気づかず張り詰めていた何かが、一瞬にしてほどけたのだろうか。

夜が明け、熱は下がったが、まだ起き上がるのがやっとだった。しかし新居には、食材も生活用具もまだほとんどない。妻はイランに到着して一夜明けて早々、たった一人で町に買出しに出かけなければならなくなった。当然、妻は一言もペルシャ語をしゃべれない。
「こんにちは」、「これちょうだい」、「いくら?」、「ありがとう」。この4つのペルシャ語を私から教わると、彼女はそれをメモして「初めてのおつかい」に出かけていった。

冷蔵庫とガス台以外、まだ何もない。イランのアパートは天井が高いのが気持ちいい。
冷蔵庫とガス台以外、まだ何もない。イランのアパートは天井が高いのが気持ちいい。

 

1時間ほどして、私の心配をよそに妻は上機嫌で帰ってきた。手には小鍋と牛乳、リンゴやオレンジなどの果物を提げていた。お店の人は、妻の拙いペルシャ語に、みな笑顔で応じてくれたという。金額も電卓で示してくれたらしい。

その後も、妻は厭うことなく一人で買い物に出かけていった。珍しい日本人女性、そしてあのワンピースのおかげもあってか、彼女は近所の店の人たちからすぐに新しい隣人として認知されるようになった。

間もなくして、妻は私と同じ語学学校デホダに通い始めた。登下校に使う市バスは、彼女にとって学校以上のペルシャ語習得の場所だった。イランの市バスの車内は、前と後ろで男と女のエリアに別れている。彼女はすぐ別の女性客に囲まれ、後部の女性エリアからは、妻の楽しそうなたどたどしいペルシャ語がいつも聞こえていた。

そんなバスでの出会いの中で、妻に初めてイラン人の友達が出来た。レイラという19歳の大学生の女の子だった。

レイラは快活な今風の女の子だが、妻の拙いペルシャ語に耳を傾け、ゆっくりと話しかける気配りもあった。二人の様子を見ていると、一回り年上の妻が年下のようにすら見えた。レイラはしばしば我が家に遊びに来るようになり、私たちも一度、彼女の自宅に招かれた。彼女自身はおしゃれとお化粧に余念がない今どきの女の子だが、彼女の家は、厳格な父親をはじめ、かなり宗教色の濃い家庭のようだった。

そんなある日のこと、何もかも順風に見えた妻の生活に、冷や水を浴びせるような事件が起きた。

その日の朝、私は、机に置いていた財布から、紙幣がごっそりなくなっていることに気がついた。前の晩、1万リアル札が10枚以上は入っていたはずだが、それがわずか数枚しかない。何かで使いはしなかっただろうかと、私は何度も昨日からの記憶をたぐった。

だが、思い出せるのは、昨晩、レイラが遊びに来て、その間、この財布がずっと机の上、つまり彼女の目の届くところに置かれていたということだけだった。彼女をその場に一人残したこともあった。

妻は、困惑と怒りのこもった目を私に向け、思い違いではないのかと詰め寄った。でも、私の結論は揺るがなかった。私は妻と話し合い、丸一日悩んだ挙句、レイラに電話で問いただすことを決めた。

私が電話をかけると、レイラはいつもの調子で明るく電話口に出た。イランに来てまだ5ヶ月、私のペルシャ語もまだたどたどしい。微妙なニュアンスなど使い分けられるはずもなく、かといって単刀直入に切り出すには、あまりにもつらい言葉だった。

レイラは陽気な口調を変えることなく、「何のことを言っているのか分からないわ」と繰り返した。そして最後には断固否定した。もうこうなっては仕方がない。
「でも、僕は君が取ったという確信があるんだ。明日、君の家に行って、お父さんに相談しようと思う。もし取っていないなら、問題ないよね」

問題ないはずがない。彼女が仮に潔白だとしても、あの厳格な家庭の中で、彼女は完全に居場所を失くすだろう。だから、私は最初から本当に父親に相談するつもりなどなかった。かまをかけたのだ。だが、レイラはあっけなく白旗を揚げた。

「カレがどうしてもお金が必要で、少しの間だけ貸してもらうつもりだったの。お願い、父には言わないで!」

翌日、レイラはお金を返しにやってきた。私は玄関口でそれを受け取ると、代わりに、彼女がこれまで妻にくれた小さなプレゼントの全てを、その手に返した。レイラは最後まで、妻に一目会わせて欲しいと頼んだが、私は黙って扉を閉めた。

妻の心の傷は深く、その後しばらくの間、私はイラン人の友人を家に招くことすら出来なくなった。妻がレイラとの出来事を乗り越えることになるのは、その数ヵ月後、8歳のかわいらしい、もう一人のレイラとの出会いを待たなければならなかった。

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