東日本大震災の発生から2年が経過した。復興への道のりは依然として厳しい。特に東京電力福島第一原発事故の影響を受け避難を強いられた福島県民は16万人を超える。そのうち8万5千人が県外に暮らし、その多くが、子どもへの低線量被曝を心配する母子の自主避難である。しかも政府や東電からの補償もほとんどない。長期化する避難生活の中、葛藤する福島の女性たちを関西各地に訪ねた。(新聞うずみ火 矢野 宏、栗原佳子)
森松明希子さん(39)は5歳の長男と2歳の長女と大阪市内の公営住宅に暮らす。避難してきたのは2011年5月のことだった。
その2カ月前の3月11日、森松さんは福島県郡山市のマンション8階の自宅で震度6弱の大地震に遭遇した。
水道の配管が継ぎ目で外れ、みるみる部屋は水びたしになった。持てるだけの着替えと幼子を抱え、市内の病院へと避難、ありあわせの布でおむつを作るサバイバル生活がはじまった。
「原発事故のことを聞いて心配でしたが、郡山は60㌔離れていますし、原発に危機感が及ばないくらい日々のおむつ、食べ物をどうするかで頭がいっぱいの1カ月でした」と振り返る。
郡山市は福島県のほぼ真ん中に位置する人口33万人の中核市。いわゆる「中通り」にある。後でわかることだが、郡山市は3月15日に市内最大値8.26マイクロシーベルトを記録。通常の放射線量が0.08マイクロシーベルト。100倍という高い数値である。
ようやく避難所を脱し、臨んだ長男の入園式ではこう告げられた。「制服は今日だけにしてください。明日からは長袖、長ズボンで」
この頃、郡山市内は1.3マイクロシーベルト前後で推移していた。わずか1時間半、子どもたちを公園で遊ばせるために週末ごと、秋田や山形へ車を飛ばした。幼稚園での母親同士の会話も「転校手続きを取った?」などと避難の話ばかり。入園時100人いた園児は約1カ月で70人に減った。森松さん自身、「ここにいること自体が子どもを危険にさらしている」「ここで生活して良いのか」と葛藤する。
ゴールデンウイーク。夫が「連休だけでも保養のつもりで関西に避難したらどう」と送り出してくれた。そして京都の妹の家で何気なく見たテレビのニュースに愕然とした。
「チェルノブイリとの比較を示し、福島は人が住むところではない、というような。福島で見るテレビは『◆◆橋が直った』とか『復興、復興』ばかり。いつか我慢すれば復興するというトーンでした」
そのとき初めて、福島をいち早く脱した友人から言われた「福島を一回出てみればわかる」という言葉の意味を理解した。
「ここで子どもを育ててはいけない。母としての直感でした」
勤務医の夫を残しての二重生活。政府が定めた避難区域以外から避難してきた「自主避難」者は法制度上、長期旅行者と同じ扱いである。ほとんど補償もない。
昨年夏から大阪市内の社会福祉協議会に職を得て、同じ避難者の相談にも乗っている。春は節目。福島へ帰還する選択をした人たちも少なくない。子どもの健康を案じつつも二重生活の経済的負担が限界に達した人もいる。離婚の危機に直面する夫婦も珍しくはないという。
関西との温度差。放射線に対する意識のギャップ――。長期化する避難生活の中、当事者の自助的なネットワークづくりが各地で進む。(続く)
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