自宅周辺は市内でも放射線量が高いエリア。必死で情報を集め、ガイガーカウンターであちこち計り、自分なりにチラシもつくった。子どもたちが通う学校や幼稚園にも何度も足を運んだ。「過剰反応ですよ」。教師に面と向かって言われたこともある。
不安な思いは高じるばかり。一方で国は5月、子どもの屋外活動を制限する積算線量の基準値を年間1ミリシーベルトから20ミリシーベルトに上げた。「放射線管理区域」と同レベル。
「安全なところに子どもを行かせるどころか、人が住んではいけない場所に、国が法律違反をして住めとは」
怒りで打ち震えた。
ただ、避難は考えていなかった。地元の保険会社に勤務。資格も取り、定年まで働く未来図を描いていた。生まれも育ちも福島。しかも「長男の嫁」だ。最終的にはその夫や両親の支えが背中を押した。
「私は家族の理解があったから出られました。でもみんな理由があって出られない。笑っているけど心で泣いている。でないと生きていけないから。本当は『せめて子どもだけでも』という大人がたくさんいます。でも口に出せないまま生活しているのです」
この瞬間も多くの人たちが被ばくを余儀なくされている。現状は悪くなる一方。自分は「動けない人の思いを背負ってきている」と齋藤さんは言う。京都では食物の放射線量を計測するなど様々な活動に取り組む。福島の子どもたちの「保養」を支援するグループもつくった。様々な理由で動くことが難しい子どもがいる。放射能の不安のないところで思いっきり遊ばせたい。大人の責任として子どもは平等であるべきだと思うからだ。保養の情報を福島に届け、受け入れ側とつなげたい。
福島の地元紙では連日、1面の3分の2くらいを「訃報欄」が占めるという。
「母は『放射能の影響だべ』って。でも、本当はお年寄りだって住んじゃいけないんです。理不尽なことばかりで悔しい」
大好きな故郷に帰りたくないわけがない。自分の根っこがそこにあるというのに。国や東電に言いたい。「1カ月でいいから福島に住んでみろ」。
(終わり)
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