◆日本入り脱北者200人 定着と自立に必死
昨年12月に長距離「ロケット」を発射してから今日まで、北朝鮮は国際社会を緊張させ続けている。このような状況を、日本に暮らしている脱北者のリ・ハナさんはどう捉え、何を感じているのか。(取材・整理 南正学)
(承前)
問:ハナさんは、脱北者の中では珍しく、韓国ではなく日本で暮らしています。日本に居住する脱北者は現在200人ほどと少数ですが、ハナさんや他の脱北者が日本行きを選択した理由は何ですか?
リ:私の場合は、とにかく中国でのつらい潜伏生活から脱するために、最初は韓国に行くことを考えました。
しかし、私のように韓国行きを希望する脱北者は多く、いつ、安全に韓国に行けるのか分からないという、当時の状況は厳しいものでした。そんなときに、私が元在日朝鮮人を親に持つ帰国者子女(帰国事業のときに日本から北朝鮮に渡った元在日朝鮮人やその子孫は、北朝鮮で「帰国者」、「帰国者子女」と呼ばれていた)だと知った支援者の方が、日本に行く方法もあると教えてくれました。
私が日本縁故者であることが証明できれば、日本政府は受け入れてというのです。現在、日本で暮らしている脱北者200人は、みんな、私のように元在日朝鮮人や日本人妻と、その子どもや孫たちです。
問:日本行きに対する違和感はありませんでしたか?
リ:祖父母や両親が元在日朝鮮人でしたので、子どもの頃から日本のことを無意識に感じながら育ちました。祖母がたまに昔話をするときも、日本で暮らしていたときの話が多かったです。
家には北朝鮮に帰国するときに祖父母が持ち帰った日本製のものが多く、日本での暮らしの名残りが多く残っていましたので、日本に対する漠然とした好奇心や想いがありました。他の帰国者たちも、日本にいる親戚から仕送りをもらっていた家も多いですから、日本に対する親近感や憧れのようなものがあったと思います。
問:日本に来てから、定着の過程はどうでしたか?
リ:最初は、「無国籍」の状態でした。国家レベルで脱北者の定着を支援する韓国と違って、日本には、(脱北者を対象とした)公的支援がないので、支援者の助けがないと、なかなか定着は厳しいです。
私の場合は、日本人の身元保証人の方などが助けてくれたおかげで、なんとか生活することができました。本当に感謝しています。最初の頃は日本語がわからないので、電車に乗ることさえ難しかったですから。
問:そのような支援はいつまで必要でしたか?
リ:自分で仕事ができるようになるまでは支援が必要でしたね。日本語の勉強もしなくてはなりませんし、気持ちは焦り、一日も早く仕事をしなくてはと必死になりました。日本に来て最初にぶつかった壁でした。
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