◆生活者であるということ
当初、私と妻のペルシャ語の授業は同じ時間帯に行われていたため、一緒に登下校していたが、秋口からは午前と午後に別れてしまい、入れ違いに学校に通うことになった。
家から学校まではバスで一本だし、我が家の近くのバス停は終点なので、乗り過ごす心配もない。とはいえ、まだイランに不慣れな妻を一人で遠出させるのは心配だった。
何より心配なのは、道路をうまく渡れるかだ。
イランで車道を横断するには、相応の覚悟とテクニックが要る。片側二車線ほどの道路を、三車線、四車線に入り乱れながら押し寄せてくる車を、一台、また一台とかわしながら前進してゆく。次の、そのまた次の車線の流れ見極めながらだ。
イラン人は子供の頃から慣れているので、躊躇している私の横から平然と道路に踏み出し、まるで全ての車の動きを見切っているかのように、歩くペースを変えることなく渡りきる。
イランでの生活が半年足らずの私には、まだ到底真似の出来ないことだ。車の往来が激しく、どうしても踏み出せないときには、誰か別の歩行者が来るのを待って、その人を盾にするようにして一緒に渡るしかない。それが女性やお年寄りの場合は、いつも情けない気持ちでいっぱいになる。
我が家からエンゲラーブ広場のバスターミナルまでは歩いて5分ほどだが、車の往来の激しいアーザディー通りを渡らなければならない。
私と一緒のときには、私が妻の手を引き道路を渡るが、妻が一人のときには、必ず誰かを盾にして渡るよう、私は当初から言い聞かせていた。
妻は(当人が女性なので)私のような罪悪感を覚えることもなく、極力誰かを盾にして上手に道路を横断していたようだが、そのうち他のイラン女性たちを見習い、私より容易に道路を横断するようになった。イランの女性、特におばさんたちは、すいすいと車列をすり抜けるというより、向かってくる車を片手で制し、運転手を睨み付けるようにしながら堂々と渡る。そうすると、大抵の車はクラクションを鳴らすこともなく、彼女たちの手前でスピードを緩めるのだ。
このような強引なやり方の方がむしろ危険が少ないということに私もそのうち気づいたが、これをやって効果があるのは、この国では老人と女性に限られることもすぐに分かった。イランは儒教の国かと思うほど、年長者、特にお年寄りに対する畏敬の念が深く、また女性が根本的な意味で強いからだ。イランの男たちは、路上で見ず知らずの女性、特におばさんと口論し、互角に渡り合えるとはゆめゆめ思っていない。
社会通念上、レディーファーストも日本よりずっと徹底している。地下鉄では、お年寄りでなくても、女性は席を譲るべき対象だ。
一度こんなことがあった。妻の乗った乗り合いタクシーが、道路を強引に渡ろうとしたおばさんを避けようとして縁石に乗り上げ、前輪がパンクしてしまった。おばさんは、抗議するタクシー運転手のおじさんを散々どやしつけると、謝罪の言葉もなく立ち去ったという。哀れな運転手に、乗客たちは少し多めに運賃を払ってあげたそうだ。
私の心配をよそに、妻は一人で飄々と登下校をこなしていった。バスの車内が男女で区切られていることも幸いした。妻の隣に座る女性はほぼ100パーセント話しかけてくる。
質問事項は似たり寄ったりなので、簡単な自己紹介程度なら、バス通学の中ですぐに覚えてしまった。暑い日なら、「どう思う?これ」とスカーフを指差し、イスラム体制への愚痴をよく聞かされ、普通の生地のスカーフを薄手のものに早替えする技を習ってきたりもした。
車内で親しくなった若い女性たちは大抵、住所と電話番号の交換を申し出るらしいが、妻はレイラとの一件以来、安易にアドレスを交換するのを控えるようになっていた。
出会ったばかりでアドレス交換を申し出るのは、こちらが外国人であり、向こうに何か下心があるからだと警戒する語学学校の同級生もいた。
実際、私もバスの車内でアドレス交換した相手から電話をもらい、食事に誘われたことがあった。行ってみると、そこは高級レストランで、相手は鞄から日本大使館宛のビザの申請書類を取り出し、私に助力を求めたのだった。
イラン人の優しさは9年前の徒歩旅行のときから身をもって知っていたし、妻も旅先ではなく生活の場としてイランのことを気に入った。だが、生活者になったところで、外国人であることに変わりがないことも、私たちは少しずつ認識するようになっていった。
一人での通学や外出が多くなると、妻も大なり小なり嫌な思いや悔しい思いをして帰ってくることが増えた。つり銭や天秤をごまかされたり、ぼられた(かもしれない)と思ったり、痴漢にあったり、若い男にあとをつけられたり。そんなとき、ペルシャ語で相手にどう言い返したらいいのか、周囲にどう助けを求めたらいいのか教えてくれと私に言い、熱心にメモを取る彼女の表情には、少しの不安も恐怖も滲んでいない。「相手になめられんようにせな」と、あくまでも強気な関西人なのであった。