◆イラン正月「ノウルーズ」(上)
イランにやってきて1年が過ぎ、まもなくイラン暦の正月を迎えようとしていた。
町は年の瀬ムード一色で、商店街には歳末大売出しの呼び声が響き渡る。とはいえ、イランに来て間もない外国人にとって、春まだ浅い3月に訪れるイランの正月は、どうもピンと来ない。
春分の日を元旦とするイラン暦は、「旧暦」ではなく、現代イランの公式な暦だ。イスラム化によってイスラム暦がもたらされ、近代とともに西暦がもたらされても、今なおイランの国家スケジュールと国民の暮らしは、このイラン暦の元で回っている。そして「ノウルーズ」と呼ばれるイラン正月は、イスラム誕生以前の太古から連綿と受け継がれてきた民族的行事である。
ノウルーズ(直訳すると「新たな日」)は、新たな生命が芽吹く春の神秘を畏れ、自然の再生を祝う祝祭である。ゾロアスター教やその他の古代信仰に端を発するとされるこうしたアニミズム的信仰は、「迷信」を否定し、科学を尊ぶイスラム教のもとにあっても、イラン人の中に脈々と受け継がれている。ノウルーズ以外にも、こうしたアニミズムはイラン暦の中に伝統行事としていくつも残っている。
その一つは、その年の最後の水曜の前夜に行われる「チャハールシャンベ・スーリー(赤い水曜日)」という行事だ。「赤」とは火のこと。この夜、人々は裏通りで小さな焚き火を起こし、「私の災厄をお前に お前の力を私に」と唱えて火の上を飛び越える。自分の病気や悩みを燃やし、代わりにそのエネルギーを授けてくれと火に呼びかけるものだ。一年のけがれを落とし、来る年の無病息災を願う行事である。
この古式ゆかしい行事は、今や大きく変容してしまっている。チャハールシャンベ・スーリーの数日前から、路上では中国製の爆竹や打ち上げ花火が売られ始め、当日はまだ日も高いうちから、「パンッ」と乾いた爆発音があちこちで鳴り始める。そして日暮れとともに、町はあたかも市街戦のさなかにいるような爆発音に包まれる。
表通りに出れば、悪ガキたちが車や歩行者にねずみ花火を投げつけている。もちろん顔めがけて投げるほどの悪ガキはおらず、そっと通行人の足元に投げ、驚く姿に笑い転げているだけだが、やられる方はたまったものではない。中には走る車から花火を投げてくるドライバーもいる。
実際、打ち上げ花火やねずみ花火がどこから飛んでくるか分からず、私は恐れおののきながら家路を急いだ。逃れるように裏通りに入ると、そこは、お手製の「爆弾」に火を点け、壁に投げつけて遊ぶ悪ガキどもの実験場と化しており、急いで踵を返して立ち去った。イランには、外国人だからと嫌がらせをするような人間はいないが、外国人をからかって喜ぶ悪ガキは山のようにいる。彼らの実験台になるのはごめんだ。
初めは焚き火を飛び越える伝統的な風景を見つけようとしていたが、正直もうそんなことはどうでもいいくらい恐ろしくて、私は寄り道することなく急ぎ足でアパートに帰った。爆発音と、ときおり救急車のサイレンが深夜まで続いた。翌朝のニュースは、イラン全土で火傷による多数の負傷者が出たことを伝えていた。
ノウルーズまでカウントダウンが始まり、歳末商戦も大詰めを迎えていた。
人々は歯ブラシ、靴下、服や鞄など身の回りのものを新調する。新しい衣服を身に着けて新年を迎えるのがノウルーズの慣わしだ。イラン人の中には、子供時代の楽しい思い出として、この時期にノートや筆記用具、通学カバンなどを新調してもらったことを挙げる人は多い。
商店街やバーザールに加えて、町の郊外には、衣類や生活洋品、そしてお正月の来客をもてなすのに必要なドライフルーツやナッツ類、果物などの食材を売る巨大な特設市場が現れる。
インフレの激しいイランでは、腐らないものは1年分くらい一気に買いだめする傾向があるが、それはまさにこの歳末商戦の時期であり、年末特設市場においてである。ティッシュペーパーや缶詰、洗剤などなど、ゆうに半年から1年分を買い込む人の姿があちこちに見られる。つまり、歳末商戦は、商売をするほとんどの人にとって、1年で最大の利益をもたらす時期でもある。
年末の買出しで恐らく最も重要なのは、正月飾りを買い集めることだ。日本人がしめ縄や鏡餅を用意するように、イランでも正月飾り「ハフトスィーン」を集めなければならない。
ハフトスィーン(7つのスィーン)とは、アラビア文字のスィーン(S)で始まる縁起物、例えば、青草(サブゼ)、コイン(セッケ)、ニンニク(スィール)、りんご(スィーブ)、酢(セルケ)、ごま(センジェド)、小麦の焦がし菓子(サマヌーン)などを7種集め、さらにコーラン、鏡、ロウソク、金魚、絵の描かれた卵などを添えて、きれいに飾るものだ。もちろん、ただそれらを寄せ集めて飾っておけばよいというものではなく、いかに美しく、趣向を凝らして飾るかも重要である。なぜなら、ハフトスィーンの飾りはリビングに置かれ、正月に訪ねてくる客人に披露されるからだ。
買出しとともに、家の大掃除も年末の重要な行事の一つだ。もともとイラン人は清潔好きで、生活レベルにかかわらず、家の中は普段から驚くほどきれに保たれている。年末の大掃除ではさらに、その年の汚れを新年に持ち越さぬよう、家中の皿を一枚一枚磨き上げる主婦も珍しくないという。
こうして準備が整うと、あとは年明けを待つだけとなる。しかしノウルーズは春分の日の0時をもって始まるのではない。政府お抱えの天文学者により、太陽が春分点(天球における太陽の軌跡つまり黄道と、地球の赤道を投影した「天の赤道」の二つの交差点のうち、黄道が赤道を上へ抜けるときの点)を通過したことが発表される瞬間まで待たなければならない。
(続く)