◆9年ぶりの再会(下)
1995年、私はシルクロードを徒歩横断中で、通りかかったカスピ海沿いのハシットパルという田舎町で、ハミッドとムハンマドの二人に出会った。私たちはまだ20代半ばだった。
当時、彼らは二人とも、町で家具屋を営む父親の仕事を手伝っていた。ハミッドは英語とフランス語を独学でかじり、外国に憧れ、外国人旅行者と見れば声をかけて自宅に連れ帰るような積極的なタイプだった。いや、イランではよくいるタイプと言った方がいいかもしれない。一方、ムハンマドは物静かで、英語が苦手なせいか、私に対しても少し遠慮がちで、ハミッドの横で静かに頷いているような青年だった。
そんな二人に共通していたのは、国と自分自身の現状に対し、すこぶる不満を抱いていることだった。
確かに、1995年当時のイランは、彼らに限らず若者が夢を持てるような国ではなかった。時はラフサンジャニ政権下、反体制派や政敵への暗殺の嵐が吹き荒れ、コミテと呼ばれる宗教警察が国民の生活を嗅ぎまわっていた。イラン・イラク戦争の終戦から6年、戦後復興期は過ぎ、諸外国との関係構築も進んでいたが、個人がビジネスで頭角を現せるような土壌はなく、むしろ、進んだ考えを持つだけで叩かれるような空気が支配していた。イラン人旅行者にやすやすとビザを発給する先進国はもはやなく、外の世界に夢を見出すことも出来ない。
「俺だって自由に外国を旅行したいよ。金なら作ろうと思えば作れる。でも国の情勢がそれを許さないんだ」とハミッドは憤っていた。
結婚前の彼らのような若者を苦しめる最大の要素は、別にもあった。その晩、ハミッドとムハンマドは友人を集め、私のためにビデオ鑑賞会を開いてくれた。テレビを前に皆であぐらをかいて座ると、暖房で部屋は十分暖かいのに、彼らの多くが膝の上に上着をかけている。ははあ、その手のビデオかと察したが、始まってみれば何のことはない、それはイタリアの大人向け深夜番組を録画したもので、参加者がクイズに正解すると、トップレスの女の子が踊ってくれるというだけの、実に他愛のないものだった。
「イチロウ、どうだった?」
ビデオ内容を口々に批評し合いながら、皆で夕食を囲んでいると、ハミッドが聞いてきた。
「イランの女の子の方がいいよ」
「どこがいいんだよ!あんな黒ずくめの色気のかけらもない格好の!」
それからハミッドの講釈が始まった。
「この国の性に対する抑圧は、若者の精神を不衛生なものにしている。我々は人間が享受して当然の権利、自由を不当に奪われているんだ。俺たちはもう、限界なんだよ!」
「みんな、結婚の予定とかはないの?」
「俺たちに未来なんかないんだ!」
あれから9年が過ぎた。
ハミッドもムハンマドも結婚し、きれいな奥さんをもらっていた。そして、それぞれ一人ずつ可愛い子供も授かっていた。
二人とも年老いた親たちから事業を引き継ぎ、すっかり一人前だ。ハミッドは家族のために店舗の上階の家屋を改築し、ムハンマドは新しいマンションのオーナーになって、その一室に暮らしている。
二人とも同じ家具商ながら、ビジネスのスタイルはまったく違う。ハミッドは主に木工の家具を自分の工房で生産しているが、ムハンマドは、パソコンが急速に普及している今の時流にうまく乗り、パソコン用のシステムデスクなどを中国から輸入して、かなりの財を成したようだ。視察や契約のために何度も中国へ足を運んでいるという。
私は、この町へ来るまでの道々の光景を思い出し、そういうことかと納得した。イラン人はよく外国人である私や妻に、イランがどれほど諸外国から遅れているかを嘆く。いつも日本や西洋諸国と比較して、だからイランはだめなんだと言う。
だが、こうして9年ぶりに、歩いた道をたどってみれば、かつての風景の断片すら思い出せないほど沿道の風景は様変わりしている。そして、夢も希望もないと叫んでいたあのときの若者たちは、今やもう一人前の大人に成長している。
確かに、イランは今も欧米諸国の制裁下にあり、国民が望むような発展は遂げられない。それでも、戦争がないということは、それだけですばらしいことなのだ。国や人を発展へと推し進める。田舎道はハイウェイに変わる。若者は大人になり、家族を増やし、事業を拡大させる。
9年という月日はまた、人との繋がりを失わせるのに十分な時間でもある。
9年前、ハミッドは私に、隣町に住むフーシャンガーさんという翁を紹介した。かつてフランスで学び、長くテヘランで官職にあったフーシャンガーさんは、当時80歳。海べりの自宅で、静かな余生を送っていた。彼はハミッドの英語の先生でもあり、ハミッドの関心を世界へ向けさせた人とも言える。
私は、フーシャンガーさんのお宅で一夜を過ごし、革命前のイランの話などを聞かせてもらった。一方彼は、厳冬期を前にイラン北西部の高原地帯に入っていく私の身を案じ、次のように強く勧めた。
まずここで数日を過ごし、その後はペルシャ湾のゲンシュム島に友人がいるからそこでしばらく遊んで、一旦日本にも帰り、春になったらまたここに戻ってきて旅を再開してはどうかというのだ。当時の日記に、私は次のように記している。
『若い私には無限の時間があるかのように感じているのだろうか。私はむしろ、時間がないと常に焦りを感じているのは、晩年より20代の頃ではないかと思う』
私は彼の提案を一顧だにせず、翌朝出発する。そこには、若さを驕る20代半ばの私がいる。
別れ際、フーシャンガーさんは私に小さな紙片を手渡した。そこには次の町アースターラーのマスキャン銀行の支店長宅の住所が書かれていた。その後、私はトルコ国境にたどり着くまで、行く先々のマスキャン銀行の支店長宅を泊まり歩くことになる。雪深いイラン北東部で、一夜でも多く暖かい夜を過ごせるようにとの、フーシャンガーさんの気遣いだった。
無限の時間があったはずの私は、彼にローマ到着を知らせる手紙を送ってから、今の今まで一体何をしてきただろう。9年ぶりに姿を見せ、墓石の前に立つ私を、彼はどう思っているだろうか。