取材して記事にまとめる作業も、地方へ旅行に行くことも、いつも僅差で彼に先を越されていた。もっと厳しい語学学校に変わることをディックに相談したときも、彼はすでに別の学校の情報を入手していた。そんな彼が、大統領選挙の取材のため、香港の雑誌の特約記者としてテヘランに戻ってきた。そして私のアパートに荷を解くと、次の日から新聞を買い集めてきて、独自に取材も始めた。
それからわずかもたたないある日のことだった。ディックは帰宅するなり、感極まったようにガッツポーズを見せて叫んだ。
「ラフサンジャニのインタビューを取ったぞ!」
聞き違いだと思った。ハタミ政権の前に2期大統領を務め、今は最高指導者ハメネイ師を凌ぐほどの実力者とも言われるイランの政界、宗教界の重鎮であり、今期大統領選にも出馬し、当選の可能性が最も高いと言われるハーシェミー・ラフサンジャニにインタビューしてきたと言うのだ。ペルシャ語は私より少しはうまいが、何のコネもツテもなく、香港から来て間もないディックがいったいどうやってそんな人物にインタビューできたというのか。
ディックはインタビューを録音したボイスレコーダーを私に聞かせた。選挙演説と思しきラフサンジャニの声と喧騒の後、ディックのあまりうまくないペルシャ語が聞こえた。
「イランと中国の今後の関係はどうなると思いますか?」
少し間を置いてラフサンジャニの声が続いた。
「××××になると思うよ」
インタビューはその一問一答だけだった。
「イチロー、ここ何て言っていると思う?」
たった一言、肝心なところがよく聞き取れない。何度か二人で聞いたのち、私にはそのペルシャ語が分かった。「より良く」という意味の言葉だった。
「そうか!さすがイチローだよ。ありがとう。これで何とか記事になる」
「この一言だけで?」
「そうさ、一言でも本人の言葉があれば、堂々と取材費がもらえるよ」
ディックは確かに何のコネもツテもなかった。ラフサンジャニの街頭演説で、記者だと言って最前列の取材陣の間に割って入り、ラフサンジャニにマイクを向けた。突然中国人青年がペルシャ語で質問してきたため、ラフサンジャニは一瞬驚いて言葉に詰まったという。ディックはそんなことを嬉しそうに語った。
たった一言だ。
それは、自分にはとうてい手の届かない一言だ。やっぱりこいつはいつも俺の先を行くのか。ディックの後ろ姿がまぶしく、そして、今までにない悔しさがこみ上げてきた。
翌日から、私たちは新聞を何紙も買い込み、選挙関連のニュースを二人で分担して読みあさった。政治用語が羅列する記事は、二人にとってあまりに難解で、一つの記事を読むのにも時間がかかる。二人で手分けすれば、同じ時間で倍の記事に目を通せる。
そうして私は、この国の大統領選挙が保守派と改革派の争いであること。保守派と改革派の中にもそれぞれ候補者が乱立し、統一候補が擁立できていないこと。そもそも候補者となるには、その前に資格審査を受けなければならないこと。などといった基本的な枠組みを知るようになる。そして、ディックの後について、選挙集会にも出かけるようになった。(続く)