6月22、23日、沖縄慰霊の日に合わせて、『新聞うずみ火』の読者と「沖縄平和ツアー」を行った。初日は米軍ヘリパッド建設工事が強行される東村(ひがしそん)高江、そして普天間の「移設先」とされる名護市辺野古を訪ね、2日目の慰霊の日は、白梅学徒らが眠る「白梅之塔」で手を合わせた。
県民の4人に1人が亡くなった沖縄戦から68年。戦争を一番憎む沖縄がいま再び「捨て石」にされようとしている。(矢野 宏)
■ 沖縄本島北部・東村高江「ヘリパッドいらない!」
那覇市からマイクロバスで沖縄自動車道、国道58号などを北上して3時間余り。沖縄本島北部の東村高江にたどりつく。人口約150人の小さな集落、その2割を中学生以下の子どもが占めているという。
沖縄本島北部は「山原(やんばる)」と呼ばれ、低い山々が連なり森が広がっている。高江も、緑と水が豊かな、多くの種類の動植物が生息する自然の宝庫だ。しかし高江は米海兵隊の広大な北部訓練場(ジャングル戦闘訓練センター)にも隣接している。総面積は7800ヘクタール、甲子園球場1950個分。密林での対ゲリラ戦の訓練を目的に1957年から使用が始まり、ベトナム戦争当時は襲撃訓練用の「ベトナム村」も設けられた。高江の人々は南ベトナム人を想定した「村人」役として駆り出され、戦争の訓練に巻き込まれてきた。本土復帰後も北部訓練場は返還されることなく、集落の上をヘリコプターが旋回し、住民は墜落の危険にさらされてきた。
1995年に起きた少女暴行事件をきっかけに沖縄では反米・反基地感情が高まった。その中で、負担軽減、米軍基地の整理縮小を掲げて「沖縄に関する特別行動委員会(SACO)」が設置された。96年12月の「SACO最終報告」(SACO合意)では県内移設を条件に普天間基地返還が明記され、同時に北部訓練場の約半分を返還する条件として、返還予定地にあるヘリパッド6カ所を高江周辺に移設することなどが盛り込まれた。
だが、高江住民の一人、伊佐育子さん(52)は次のように説明する。
「SACO合意は、北部訓練場の半分の返却を条件にヘリパッドを建設するとしています。しかし実際は、使われていない土地を返す代わりに、米軍にとって効果的な訓練基地をつくり、固定化しようとしているのです」
ヘリパッドは森を切り開き直径75メートルの円形に造成する。しかも、6カ所は高江の集落を取り囲むように計画されていた。一番近い民家からわずか400メートルしか離れていない。
「山原全体で見れば小さな点かもしれませんが、軍事ヘリが飛び交うことで、その点が線になり、線が面になり、豊かな生態系と私たち住民の暮らしに与えるダメージは計り知れません」
高江の住民は2006年2月、区民会議でヘリパッド建設反対を決議、さらに2回目の反対決議も上げた。しかし、住民の声を無視する形で、沖縄防衛局(当時は那覇防衛施設局)は突然工事を強行する。2007年7月2日のことだ。住民たちは工事車両を止めようとゲート前に座り込んだ。
「ゲートにしがみついて立ちふさがり、背中を向けて『早く帰って』と叫ぶ若い母親を見て、私たちが立ち上がらないと子どもたちを守れないと感じた」
そう話す育子さん自身も、そのときは足がガタガタ震えていたと振り返る。
住民たちは「ヘリパッドいらない住民の会」を発足、座り込みを続けている。住民運動の経験者もおらず、どう座り込んでいいかもわからなかった。辺野古の座り込み現場に話を聞きに行ったこともあったという。
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