■ 「沖縄への差別」
5月下旬、沖縄守備軍は首里の司令部を放棄して南部への撤退を選択する。国体護持のため、本土決戦を一日でも遅らせようと、沖縄を「捨て石」とする持久戦に出たのだ。米軍の攻撃が東風平に迫るなか、八重瀬岳の野戦病院も放棄されることになり、白梅学徒隊にも解散命令が出る。6月4日のことだ。放り出されたのは戦場の真っ只中。しかも那覇市内出身の者が多く、南部の地理には不案内だった。白梅学徒に犠牲者が出るのは、この解散以降である。
中山さんは同郷の友人と、山の稜線沿いに南へ向かった。途中で見たものは、おびただしい遺体。軍の南部撤退によって、多くの住民が戦闘に巻き込まれた。畑にも、道にも、海岸の波打ち際にも折り重なるようにして亡くなっていた。
突然、激しい銃弾が浴びせられ、中山さんは足を撃たれる。「もう逃げられない」と覚悟し、友人に声をかけた。「私たちも自決しよう」。その手には手りゅう弾が握られていた。「生きて虜囚の辱めを受けず」という軍国教育を叩き込まれていたのだ。
「いや、きくちゃん、自決は絶対にいや」
友人の言葉が現実に引き戻した。その後、中山さんらは捕虜となり、生き延びた。
読経が終わり、白梅の塔の前では焼香の列が延々と続いていた。中山さんら元学徒とともに足跡をたどる活動を続ける沖縄尚学高校の生徒のほか、元学徒の証言を聞いた学生など若者の姿が目に付く。「沖縄戦を風化させてはいけない」と体験を語り継ごうとする若者は着実に増えている。しかしその一方で沖縄はいまも68年前と同じように「捨て石」として、犠牲を強いられ続けている。
中山さんの追悼の言葉にはその無念と怒りがにじんだ。
「沖縄は全国の米軍基地の74%が居座り、米軍関係者による事件事故が多発しており、県民の生命・人権は軽視されています。さらに、オスプレイを配備し、米軍普天間基地の辺野古移設が一方的に進められようとしています。これは沖縄に対する差別です」
(終わり)
■沖縄平和ツアー報告(上)