6月22、23日、沖縄慰霊の日に合わせて、『新聞うずみ火』の読者と「沖縄平和ツアー」を行った。2日目の慰霊の日、白梅学徒らが眠る「白梅之塔」で手を合わせ、元学徒の方から当時の話を聞いた。
県民の4人に1人が亡くなった沖縄戦から68年。戦争を一番憎む沖縄がいま再び「捨て石」にされようとしている。(矢野 宏/新聞うずみ火)
■ 白梅慰霊祭
翌23日は沖縄慰霊の日。激戦地である糸満市国吉の「白梅の塔」で営まれた慰霊祭に参列した。気温が30度を超える炎天下、主催者を代表して「白梅同窓会」会長の中山きくさん(84)が追悼の言葉を読み上げる。
正面には、沖縄戦で犠牲になった県立第二高等女学校の生徒や教職員ら149人の名前が刻まれており、うち22人が「白梅学徒隊」の女子学徒たちである。白梅学徒隊は補助看護婦として沖縄戦に動員させられた4年生56人。校章が白梅だったことから、のちにそう呼ばれた。
1945年3月6日、中山さんらは東風平(こちんだ)国民学校にある第24師団陸軍野戦病院看護教育隊に正式入隊した。「お国のために働ける」と誰もが意気込み、「神風が吹くから絶対に負けない」と信じて疑わなかったという。入隊して18日目の3月23日、本島周辺を米軍の艦隊が取り巻いた。空爆や艦砲射撃が始まり、その日迎えるはずだった卒業式は幻と消えた。看護教育も途中で打ち切られ、中山さんらは東風平町(現・八重瀬町)の八重瀬岳中腹にある第一野戦病院へ配属された。
野戦病院といっても洞穴に粗末な木製の2段ベッドがあるだけ。学徒は「飯上げ」と呼ばれる食事の運搬や水汲み、排泄物の処理、包帯の交換などの雑務にも従事させられた。
4月1日に米軍が沖縄本島上陸。中旬になると中山さんら4人が「手術場壕」の勤務になった。何年か前、一緒に訪ねた手術場壕跡で、中山さんはこう回想していた。
「患者の中でも最も重症な人が運ばれてきました。私たちはロウソク2本持って明かり当番です。連日、夕刻から朝方までの手術で寝る間もありません。つい居眠りをして軍医さんに蹴飛ばされ、はっと目を覚ますという繰り返しでした。手術がほとんど麻酔なしの『生切り状態』で、切断された手足の重いこと。とても一人では持てません。昼間は敵機にやられますから、夜中にブリキの空き缶に投げ込まれた手足をサトウキビ畑の砲弾穴に捨てに行くのも私たちの仕事でした」
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