"平成の大合併"と呼ばれた自治体の合併と並行して進んだため、もともと別の自治体だった地域が1つの自治体にまとめられ、その結果、地域の少数派となってしまいゴミ処理施設の建設地の住民は無視されるということが相次いだ。まったく孤立無援となってしまう日本より、チャンブルヌでは市長が建設反対に回っただけマシといえるかもしれない。
本作でとくに秀逸なのは、住民と行政、業者のやり取りである。たとえば「臭い」の問題ではこんな会話がある。
現地を訪れた県知事に住民が直接訴えようとすると、知事は「すべて市長と話しました」と取り合おうとしない。住民は悪臭のことを訴え、「臭いは出ないといった証拠を持ってきました」と手渡す。
知事は資料を見もせず、「臭いは出ません」と言い放つ。
「私たちをまただますのはやめて!」との住民の悲痛の叫びに顔色1つ変えず、知事は車に乗り込んで走り去る。
有害なガスが発生しているんじゃないかとの指摘には、事業者側は「メタンガスだ。メタンガスは無害だ。発電ができる」と煙に巻く。
おそらく臭いの原因は、廃棄物に含まれる硫黄分が空気に触れずに嫌気発酵することで発生する有毒な硫化水素ガスだろう。卵が腐ったような悪臭が特徴的で、高濃度になると致死性という危険な硫化水素は、ゴミ処分場につきものといってよい。
日本では実際に福岡県内の産業廃棄物の処分場で作業員3人が硫化水素ガスを吸って死亡する事件が起きている。また宮城県内の産廃処分場では、周辺住民に健康被害を出して大問題となった。こうした現場は少なくなく、埼玉県内のゴミ山でも致死量を超える硫化水素がたびたび出ていることが市民団体の調査で明らかになっている。このように大変危険な代物なのだが、知識のないチャンブルヌ住民はそれ以上の追及ができない。
本作で描かれるゴミ処分場問題はまさしく日本のそれとまったく同じで、なんら違いはない。なにも知らない住民が突如降ってわいたゴミ処分場問題に振り回され、必死に反対運動を繰り広げるすがたや業者の身勝手な主張、業者の言い分をうのみにした行政の冷淡な対応ぶり──。
ところが、困ったことに作中ではこうした深刻な会話が時として非常にユーモラスで喜劇的なのだ。それは何も演出ではなく、微妙な会話のずれなどから生じている。
喜劇的な雰囲気すらただよう映像なのだが、見ているうちに不覚にも涙が出そうになった。私はこの十数年、断続的にではあるが、日本におけるゴミの不法投棄や不適正処理、ゴミ処理施設の建設をめぐる問題、さまざまな環境汚染を取材してきたが、チャンブルヌのゴミ処分場の風景はこれまで取材で目の当たりにしてきた国内の現場とそっくりだったうえ、住民の嘆きは、ゴミ問題で苦しむ住民の言葉そのものだったからだ。
映像をみているうちに、かつて訪れた現場を追体験するような気持ちになり、チャンブルヌの住民の顔が過去に訪れたゴミ処分場問題に苦しむ住民の顔と二重写しに見えてきた。
そして、かつて行政や業者に対して抱いた激しい怒りと無力感が腹に重くたまっていくのを感じた。なぜなら、そうした現場は抜本解決にはほど遠い状態となっているところも少なくないためだ。それもまたチャンブルヌと「そっくり」である。
この類似性はなにもゴミ処分場問題に限ったことではない。2011年3月に起こった福島第一原発事故や、事故後の東京電力や国の対応とも共通するものを見いだせる。
「これは環境犯罪だ」「飲み水を汚染している」と必死に訴えるチャンブルヌの住民のすがた、それは「フクシマ」の事故以後に国家と対峙するようになった人びとのすがたとも重なる。
「過ちを正すために、新たな過ちを犯してはならない」とのチャンブルヌの市長のことばが重い。事故が収束すらしていない現状で「フクシマの教訓」を騙り、国家を挙げて原発の売り込みをかける安倍総理に聞かせてやりたいものだ。
トラブゾンの「狂騒」から得られる教訓を感じたうえで、日本を見渡してほしい。
【井部正之】
『トラブゾン狂騒曲~小さな村の大きなゴミ騒動~』公式サイト
http://www.bitters.co.jp/kyousoukyoku/index.html