◆遺骨もなく、名前も分からぬ人々も
神戸市への本格的な空襲が始まったのは1945年2月。特に大規模だったのが3月17日、5月11日、6月5日の爆撃で、市街地は壊滅的な被害を受け、犠牲者は8000人を超えた。神戸空襲の犠牲者の名前を刻んだ慰霊碑が神戸市中央区楠町の大倉山公園に完成し、終戦から68年目の8月15日、その除幕式が行われた。(矢野 宏 / 新聞うずみ火)
◇「あ、お父ちゃんや」
兵庫県市川町の国好和子さん(80)は6月5日の空襲で父の上月久吉さん(享年45)を亡くした。当時、国好さんは12歳、神戸女子商業の1年生だった。3人姉妹の末っ子で、国好さんが2歳のときに母が病死。その後、長姉の桜井章子さんが嫁ぎ、神戸市須磨区の自宅で父と次姉の美恵子さんとの3人暮らしだった。
その日、昼過ぎに空襲警報が鳴り響き、国好さんらは防空壕に逃げ込んだ。この日来襲したB29爆撃機は474機。昼間にもかかわらず、空は巨大な機体に埋め尽くされた。
「お前らは逃げた方がいい」という父の言葉で、国好さんは身を寄せていた長姉の章子さんと6歳の姪と3人で、近くの若宮国民学校(現・若宮小学校)を目指した。着の身着のまま、肌布団を頭から被って火の粉が舞う中を懸命に走った。途中、黒焦げや半分焼けた遺体をたくさん見た。溝にはまって虫の息だった母親。背負った赤ちゃんは焼け焦げていた。
「そら、地獄でしたわ」
国好さんは言葉少なに振り返る。
やっとのことで着いた国民学校は、避難者であふれかえっていた。ドラム缶にためていた泥水すら残っていなかった。
ほどなく、父と一緒だったはずの次姉の美恵子さんが学校に飛び込んできた。国好さんの顔を見るなり、「お父ちゃんが死んだ」。大八車に乗せられた父親はこもをかけられ、足だけが見えていた。章子さんがこもをめくると、国民服は血だらけ。焼夷弾の直撃を受けて即死状態だったという。
「怖くて、顔はよう見ませんでした。姉に聞くと、『水をくれ』『あとは頼む』というのが最期の言葉だったそうです。叔父が迎えに来てくれるまで、ずっと泣き続けていました......」
当時、空襲の最中であっても子どもや年寄り以外は逃げることが禁じられていた。「防空法」によって、逃げれば「懲役1年以下、または500円の罰金」という罰則まであった。教員の初任給が55円だった時代に、である。
「優しい父でした。女学校の入学発表を一緒に見に行ってくれて、合格を喜んでくれました。その帰りに闇市でお赤飯を買ってもらったのが忘れられません」
空襲によって戦災孤児になった国好さんは自宅も焼失、親戚の家を転々とする。父が入学を喜んでくれた女学校も通えなくなり、手に職をつけるために洋裁を習った。戦後、どのように過ごしたのか。国好さんは多くを語ろうとしなかった。
除幕式が終わり、参加者たちは慰霊碑の裏側に回って身内の名前を探し始めた。厳しい残暑のなか、150cmに満たない国好さんが刻銘版を見上げて呟いた。
「あ、お父ちゃんや」
父は遺骨もない。その場で国好さんは手を合わせていた。
刻銘板に刻まれた名前の中には「富松よっちゃん」とか、「速水雅子他一家6人」など、名前がわからない犠牲者も含まれている。
「正確な名前がわからなくても、そこに生きていたという証しを、せめて残してあげたいと思ったのです」
犠牲者名簿を作成した「神戸空襲を記録する会」代表の中田政子さんは、そう言って微笑んだ。
(おわり)
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