2時間以上、立ったままで証言する新川さん
2時間以上、立ったままで証言する新川さん

◇新川初子さん「友の無念と反戦の思い次の世代に伝えたい」
『新聞うずみ火』が主催する「黒田清さんを追悼し平和を考える集い」が8月10日、大阪市の「市民交流センターひがしよどがわ」で開かれた。

2000年夏に永眠したジャーナリスト、黒田さんが訴えた反戦の思いを新たにするための恒例の集いで、今年のテーマは沖縄。『新聞うずみ火』でコラム「会えてよかった」を連載している沖縄・恩納村在住の上田康平さんが現地報告、続いて関西ひめゆり同窓会会長の新川(あらかわ)初子さん(87)=豊中市=が「ひめゆり学徒の沖縄戦」と題して講演した。

新川さんは沖縄女子師範在学中、補助看護婦として沖縄戦に動員された女子学徒隊(ひめゆり学徒隊【注】)の一人。戦後10年間、沖縄で教職に就き、1955年からは大阪で教鞭をとった。関西ひめゆり同窓会の会長として体験を語り継いでいる。新川さんの貴重な証言を、昨秋に取材した記録と合わせて構成し、お届けする。(栗原佳子/新聞うずみ火)

◆兵舎で卒業式
新川さんは1926 年5月生まれ。父親が京都府警に勤務していたため京都で生まれ育った。15歳のとき父親の転勤に伴い、一家で沖縄に帰郷。京都府立桃山高女から那覇市の沖縄県立第一高女に転入、2年後の43年、沖縄女子師範に入学した。
当時は既に戦時体制下。44年になると沖縄守備第32軍が創設され、日本軍の部隊が駐留するように。沖縄の人たちは総動員体制に組み込まれ、学校の授業も軍の作業などに費やされるようになる。

「食糧も、いいものは軍に供出しました。当時は寄宿舎にいたのですが、『きょうも、太平洋のお汁だね』というくらい、お椀に水ばかりの味噌汁でした。それをすすって陣地構築や濠掘りなどの軍作業に行くのです。小禄の飛行場作りにも通いました。重いツルハシをふるって、サンゴ礁の岩を砕き、モッコに入れて担いだり。勝つという希望を持って作業をしていましたが、結局、4月1日に米軍が沖縄本島に上陸し、飛行場が日本軍に使われることはありませんでした」

1945年3月23日、米軍の空襲がはじまる。24日、寄宿舎にいた新川さんたちに動員命令が出た。行き先は南風原の陸軍病院。夜が明けないうちに徒歩で現地へと急いだ。25日に行なわれるはずの卒業式は29日に延期、三角兵舎で行なわれた。時折、艦砲が着弾し、テントが揺れる。卒業証書と教員免状の授与もなかった。

野戦病院といっても小山に30本の横穴を張り巡らせたもの。幅はすれ違うのもやっとで、そこに丸太を組んだ二段ベッドがずらりと並んでいた。新川さんが配属されたのは外科壕24号壕だった。
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