◇新川初子さん「友の無念と反戦の思い次の世代に伝えたい」
『新聞うずみ火』が主催する「黒田清さんを追悼し平和を考える集い」が8月10日、大阪市の「市民交流センターひがしよどがわ」で開かれた。 2000年夏に永眠したジャーナリスト、黒田さんが訴えた反戦の思いを新たにするための恒例の集いで、今年のテーマは沖縄。
『新聞うずみ火』でコラム「会 えてよかった」を連載している沖縄・恩納村在住の上田康平さんが現地報告、続いて関西ひめゆり同窓会会長の新川(あらかわ)初子さん(87)=豊中市=が 「ひめゆり学徒の沖縄戦」と題して講演した。
新川さんは沖縄女子師範在学中、補助看護婦として沖縄戦に動員された女子学徒隊(ひめゆり学徒隊【注】)の一人。戦後10年間、沖縄で教職に就き、 1955年からは大阪で教鞭をとった。関西ひめゆり同窓会の会長として体験を語り継いでいる。新川さんの貴重な証言を、昨秋に取材した記録と合わせて構成 し、お届けする。(栗原佳子/新聞うずみ火)
◆珊瑚礁が針山に
砲弾の嵐の中、担架に乗って南部へと下った。
「4、5人でいいから入れて下さい」
あちらこちちの壕で、必死で交渉する教師らが、日本刀で威嚇されることもあった。
担架を担いだ防衛隊員が艦砲で負傷すると学徒が交代で担いだ。
「片足のケガだから歩きたい。だけど、みんなのように歩けないから足手まといになってしまって、もっと迷惑がかかる。中途半端で申し訳なく、辛かったです」
第一外科が移動した南部の壕にやっとたどり着いた。それも束の間。6月18日、学徒隊に突然の解散命令が下る。「君たちはもう用がなくなったから自由行動をとれ、と」。学徒隊員に死者が続出するのはこの解散命令の後である。
「先生は4、5人で敵中突破しなさいとおっしゃいました。命だけは大切に。でも捕虜にだけはなるなと」
この頃、新川さんはモノにつかまりどうにか歩けるようになっていた。弾が飛び交う中、友人たちの姿を見失わないよう必死だった。夜は歩き、昼間は岩陰にひそみ、死体の間をくぐり抜けるように海岸線を行った。海には米艦船。新川さんは裸足のままだった。
「サンゴ礁の上を歩くのですが、尖っていて針みたいなんですよ。足の裏はずるむけにむけましたが、これでも歩かないといけない。もう胸の芯まで痛いけど、悲鳴も出せない。自分一人だけ捕虜になったら大変だから。必死でした」
皮のむけた足裏に砂浜も容赦なかった。「火の上を歩いているようだった」という。
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