Mさんが車のトランクを開けると、そこには100個近いナズリー袋が詰まっていた。一つの袋には、イランのスープや煮込み料理に欠かせないレンズ豆やひよこ豆など豆数種類、おつまみの代名詞であるヒマワリの種の塩炒りやスイカの種、ナンに添える甘いゴマペースト、ハルバ。

さらに、子ども用にキャンディーやノシ飴、ビスケットなどが詰まっている。折りしも今日は冬至。イランでは冬至の夜をシャベ・ヤルダーと呼び、この夜は親族や友人同士が集まり、ナッツ類をつまみながら夜通し語り合うのだ通例だ。袋の中身もそれに見合ったものとなっている。このナズリー袋をこれから家々に配って回るのだという。

最初はKさんの息子さんで大学生のSさんと一緒に回ることになった。Sさんが呼び鈴を押し、インタフォン越しに「誰?」と聞こえると、「ナズリーを持ってきました」と告げる。すると間もなく門が開いて、家人が顔を出す。

呼び鈴のボタンが一つのときは、何人家族か聞き、大所帯なら2袋あげていい。ボタンが一つでも、2世帯以上が暮らしていることもこの地区では珍しくないという。4、5人家族に一袋をだいたいの目安にして、どんどん配って歩く。

袋を受け取ってもお礼を言う人はほとんどいない。彼らの口からは、「ありがとう」の代わりに、「(神が)あなたを受け入れますように」という言葉が返ってくる。「あなたのその行いに神はきっと満足しますよ」とねぎらいの言葉をかけこそすれ、深々とお礼を言う筋合いはまったくないのである。

それはまた、ナズリーを行う側にも言えることだ。Mさんは、確かにこの地区が貧しいことを知っているが、決してこの地区の住民への憐れみから施しを行っているわけではない。あくまで、神との間でそれを約束したからである。貧しい人々のために私財を投げ打って善行を施している、などという押し付けがましい考えはないのである。

4人で手分けをして、何度も車と裏通りを往復した。夜の9時を回っていたが、「ナズリーを持ってきた」と告げれば、それだけで門を開けてくれる。そして、どこの誰とも知れない者が持ってきた食べ物を受け取り、疑うことなく食べる。これは世界でも稀有な習慣と呼べるものではないだろうか。大都市テヘランの南と北に限らず今も残る、他者への信頼と、神への信頼あればこその習慣だ。

Mさんはこうした施しを毎年この時期に行っているという。そういう約束を神様と交わしたからに他ならない。一度きりのナズリーもあれば、一生続けるナズリーもある。大金を費やすナズリーもあれば、飲み物を配るだけのナズリーもある。だが、その一つ一つが、願いの成就と神との約束の遂行という、喜びに満ちた営為であることに変わりはない。

日本では、赤の他人の喜びなど知る術もない。だがイランでは、他人の大小様々な喜びが、町に溢れているのが分かる。

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