◆津波を乗り越えた船~出漁を待ちわびるが...
漁師の今野智光さん(54)らは2年前の3月11日、大地震のあとすぐに出港した。「津波のときは船を出せ」というのが地元の猟師の言い伝え。120隻もの船を荒れ狂う海に漕ぎ出し、ほとんどが船ごと助かった。そうして命がけで守られた船を今、使うことができないのだ。
港に係留された船はどれも手入れが行き届いているように見えた。本格操業の見通
しが立たない中、それでも、いつでも海に出られるように、漁師たちは船のメンテナ
ンスも欠かさないという。
いまの漁の規模は震災前の100分の1。地元の漁協は試験操業を再開する方針で、再開が決定されれば10月にも小型船が海に出るという。
「原発で人生を左右されてしまう。理屈に合わないですよ」。だんだん重苦しくなる空気を、今野さんがそう代弁した。
◆地元の魚介類、店頭から消える~食料品店主の複雑な思い
中島孝さん(57)は相馬市内で生鮮食料品を扱う「中島ストア」を営む。魚の行商をしていた父と店を設けたのが30年余り前。地元の魚介類の味に魅せられ、それを地元の人に提供することをなりわいとし、喜びとしてきた。しかし、震災後はそんな地元の魚が店頭からほとんど消えた。
「県外のものを扱っていますが、味が全然違う。なんでこんなに違うのっていうくらい......、やはりここの魚はうまいんです」と中島さん。
自ら港に足を運び、漁師たちと付き合いを重ねてきただけに、再起に賭ける彼らをさらに痛めつける国や東電のやり方に怒りを禁じえない。地元以外からの仕入れ自体、商売に響くが、海とともにある地域の経済にとっても、漁の足踏みがもたらす影響は大だ。
一方、消費者の立場はさまざまだという。中島さんは昨年6月、震災から1年3カ月ぶりに、試験操業で獲れた地元の魚介類を店頭に並べた。しかし、喜んで買う年配者がいる一方、内部被ばくを気にする人々は手を出そうとはしなかったという。
◆内部被ばくへの不安~消費者の苦悩
「本当に地元産はおいしいんです。一切れなら、と思うけれど、でも、内部被ばくは次の次、未来の子どもたちに影響すると思うと......」
市内に住む吉田みゆきさん(29)は8歳と5歳の子どもを持つ母親。震災直後、福島第一原発で働く友人に「逃げろ」と言われ、あてもなく車を走らせた。
落ち着いたのは新潟。しかし3月末で避難所の閉鎖が決まり、相馬へ戻った。母のひろみさん(53)は「家族は一緒のほうがいいと。でも娘たちだけでも新潟へ置いてくればよかったのではと、いまも悩みます」と声を落とす。
自宅は地震で半壊、ローンも残る。痛い出費だが、歯磨き以外は料理も全てペットボトルの水を使う。30キロ圏外の相馬市は東電の賠償対象ではない。被ばくに対する市民の意識も個人差があり、そんな地域社会での日々の暮らしにも神経をすり減らす。
東電と国への怒りは計り知れない。総理の五輪招致のプレゼンを見て「何言ってんの」と思わず叫んだというみゆきさん。「『こっち』は大丈夫って言うけど。『こっち』って何なの?」(おわり)
【栗原佳子 新聞うずみ火】
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