止めようがない好奇心 違法CD競って買い求めた都市住民
厳格に統制されてきた韓国の映像情報は、どのようにして北朝鮮国内に入り込み、拡散していったのだろうか? 韓流ドラマを地下工場で大量にコピーして闇市場に流していたリャン・ジョンウ氏(仮名、平壌在住の30代男性)が、その体験を詳細に語った。
談 リャン・ジョンウ
整理 ファン・ミラン
◇ VCDの爆発的な普及
2002年頃、中国からVCD(注1)再生機が大量に流入し始めた。従来のVHSのビデオデッキに比べ、VCD再生機は格段に安くて一般家庭でもなんとか 購入でき、画質も良かったからである。VHSのビデオデッキはほとんどが日本から入って来たもので、平壌市にある外貨だけが使える商店で売られていた。 値段は1万日本円あるいは100米ドル以上したと思う。
ところがVCD再生機は、機種によって価格差はあるものの、新品が3万1000~4万ウォンくらい だった[編集部注:2004年8月を例にとると、100ドルは、実勢レートで約11万ウォン程、新品一台が30ドル以下で買えた]。また、中国からさらに 安い 中古のVCD再生機もどんどん流入していた。
当時、朝鮮にVCDを普及させるために、韓国の「安企部」(現国家情報院)が工作資金を投入しているという話を度々耳にした。しかし私が考えるに、 外の情報に飢えていた朝鮮住民の間で、映像に対する需要が高まったことがVCD普及の原因だったと思う。2004年までの間に、朝鮮のほとんどの都市郡に 住む 住民たちがVCD再生機を持つようになったと私は見ている。この頃、新品VCD再生機の入った箱を持ち歩く人々を通りでよく見かけたものである。
中国のVCD再生機製造会社は、朝鮮の事情をよく把握していたようで、朝鮮の実情に合った機械をたくさん生産した。朝鮮は電気事情が悪いため頻繁に停電する。それで、充電バッテリーの付いた再生機も生産されていたし、使用説明書も朝鮮語で書かれていた。
朝鮮で爆発的に流行したVCDであるが、当初見られていたのは、国家が承認した外国の映画や漫画(アニメ)などであった。安価なVCDの登場によっ て、人々は他人の家にお邪魔して窮屈な思いで見るのではなく、自分の家で気兼ねなく録画物を見られるようになった。
しかし、人々はすぐに、映像の種類が少 ないことに退屈するようになった。当時、一般的なVCDディスクは、多くが朝鮮の「木蘭(モンラン)ビデオ社」から発売されたもので、国営のビデオ店や市 場で購入することができた。だが、それらの作品は、国家の厳重な審査を経たお固いものばかり、しかも種類が少なくて朝鮮人なら一度は見たことのある作品し かなかった。人々は飽きがきてしまい、いつも、何か新しくて面白いものは出ないか期待していた。
そんな折、VCDを闇でダビングする人たちが登場した。平壌の社会科学院にいる若い科学者たちがそれである。このインテリたちは、90年代後半の 「苦難の行軍」期に打撃を受け、誰もが生活に窮していた。ここの科学者たちは、自らの知識と経験を土台に商売を始め、稼いだ。
朝鮮で初めて個人資産家が登 場したのがこの社会科学院だったとも言われている。コンピューター専門家たちはコンピューターを利用した商売を考えた。彼らは、VCDの映像ソフトの種類 があまりに少ないことと、国家の承認を受けた作品が退屈きわまりないことに着目して、米国映画や「保衛部時事映画」などを、自宅で不法にダビングして密売 し始めたのであった。
平壌のとある企業所に勤めていた私は、2002年に社会科学院の知り合いと結託して、この"海賊版"密造に乗り出した。企業所でコンピューターを 扱っていた関係で、私は多少電子機器の取り扱いに明るい方だったし、企業所でもらえる給料ではまともな生活は望めなかったので、危険な仕事ではあったが、 科学者たちと組んで不法VCDの密売の仕事を始めたのだ。
外国映画の"海賊版"が売りに出されると、ジャンマダン(市場)で大人気となった。急激に需要が増えたのは、もちろん、これまで見ることが簡単でな かった作品がVCDになって出てきたこともあるが、社会科学院の位置が平安南道平城(ピョンソン)市に隣接していたことが大きい。平城は、朝鮮における流 通の中心だ。ほとんどあらゆる商品が、東西南北の交通路の交差点である平城のジャンマダンに一度集まり、そこから全国各地に送られて行くのである。だか ら、全国の市場と取り引きしている平城のジャンマダンでのVCD需要は、一日に何百・何千枚にもなったのである。
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