◇ 日暮れまで遊んだ子供時代
小さい頃は、よく親や祖父母の目を盗んで遊んでいました。大人たちに許可をもらって遊ぶときもありますが、そうでないときは、近くの幼稚園の裏側に隠れて、友達と遊びに熱中していました。
特に日が長い夏には、同年代の子供たちが集まって、日が暮れることも知らずに、力尽きるまで遊ぶのでした。遊びに夢中になっていた私も結局は祖母に捕まり、アパートの前にある共同水道で、祖母の大きくて強い手で、汚れた顔や体を容赦なくごしごしと洗われます。
痛みに耐え切れず泣くと、「泣くな!」と頭を叩かれます。私はクックッと声を殺しながら祖母にされるがまま、泡だらけになり、そして水をぶっかけられ、やっと本来の顔が判る程度まできれいになっていくのでした。
洗い終わると、祖父母と家に上がり、夕食を美味しくいただきます。小さい頃は片付けもしなかったのですが、少し大きくなると、食後の片付けや皿洗いは私の仕事に。そして、弟と交代で、ポンプで水を汲み上げ(祖父母の家は2階でしたが、水圧が弱くて、水を汲み上げるためにポンプを設置。他の家も同じでした)、台所やトイレの貯水タンクを満タンにします。
その後は、夜のドラマ鑑賞。上の階に住むおばさんが降りてきて、祖父母と3人で花札をやりながらドラマの時間を待ちます。もし停電でドラマが観られなくなると、そのまま花札遊びは続くのですが、いつも途中から祖母が居眠りをするので、うやむやに終わることが多かったのです(花札は、本当は禁止されてやってはいけないのでしたが、みんなこっそりやっていました)。そうして終わる頃になると、私と弟も家に帰る準備をし、祖父母の家を出るのでした。
祖父母の家から私の家までは、歩いて数分の距離にありましたが、夜の道は暗くて何も見えないため、少し時間がかかりました。真っ暗な階段を降りて、幼稚園を横切り、また真っ暗な階段を上って家に着くまでの距離を、私と弟はいつもその日あったことなどを話し合いながら、一歩一歩進んでいきます。
父の前では息もろくにできないほど、父を怖がっていた私と弟でしたので、家に帰ると、その日の報告だけを済ませてすぐに眠りにつくのでした。
翌朝、仕事に出かける両親とともに、私たちもそれぞれ幼稚園や学校に行きます。幼稚園や学校が終わると祖父母の家に直行し、夜はまた家に帰る、それが私の日課でした。
※在日朝鮮人の北朝鮮帰国事業
1959年から1984年までに9万3000人あまりの在日朝鮮人と日本人家族が、日朝赤十字社間で結ばれた帰還協定に基づいて北朝鮮に永住帰国した。その数は当時の在日朝鮮人の7.5人に1人に及んだ。背景には、日本社会の厳しい朝鮮人差別と貧困があったこと、南北朝鮮の対立下、社会主義の優越性を誇示・宣伝するために、北朝鮮政府と在日朝鮮総連が、北朝鮮を「地上の楽園」と宣伝して、積極的に在日の帰国を組織したことがある。朝鮮人を祖国に帰すのは人道的措置だとして、自民党から共産党までのほぼすべての政党、地方自治体、労組、知識人、マスメディアも積極的にこれを支援した。
著者紹介
リ・ハナ:北朝鮮・新義州市生まれ。両親は日本からの「帰国事業」で北朝鮮に渡った在日朝鮮人2世。中国に脱出後、2005年日本に。働きながら、高校卒業程度認定試験(旧大検)に合格し、2009年、関西学院大学に入学、2013年春、卒業。現在関西で働く。今年1月刊行の手記「日本に生きる北朝鮮人 リ・ハナの一歩一歩」は多くのメデイアに取り上げられた。
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