○優等生のポジションに
人民学校に入ってから、私はそれまでの目立たない存在から一変し、勉強ができる子として先生や同級生たちに認められることになりました。いきなり担任の先生から大いにほめられた1日目の国語の授業で、私のポジションは決まったのです。人民学校では、高等中学校と違ってすべての授業を担任の先生一人で行うため、担任の先生に認められるということは、その後の1年間の学校生活を左右する鍵となるとも言えるのでした。そして、私は、入学と同時に自分の意志とは無関係にその鍵を手に入れたのでした。
実は、たまにですが、幼稚園のときも周りからほめられることはありました。しかし、これほど先生からほめられ、同級生から羨望の目で見られるのは初めてだったので、俄然力が入り、勉強しなきゃと思うようになったのです。
国語だけでなく、算数や自然(生物)、道徳や「金父子の革命活動」などの他の科目でも、私は良い成績をキープすることができ、クラスだけでなく、全校に知られる優等生になっていました。勉強においては、私は先生から絶対的な信任を得ることができました。先生に代わって試験の回答のチェックをしたり、勉強が遅れている同級生をサポートしたり、クラス対抗又は学校対抗で行われる大会に代表として参加したりと、とても充実していました。
親が学校の保護者総会に参加すると、他の保護者の前で模範学生として紹介される私のことが自慢に思えて、とても嬉しかったそうです。私より2年後に同じ学校に入学した弟は勉強が苦手だったため、家族に私と比べられることもありました。そのため、「女の子が勉強をして何になる」と言っていた祖母も、「男の弟がダメなら、女でも仕方ない、お前が父の職業を継いで医者になれ!」と言ったこともありました。
しかしそう言いながらも祖母は、そして両親も、私が勉強できるような環境を作ってくれるなどのサポートをしてくれたわけではありませんでした。相変わらず祖母は、私が祖母の仕事を手伝う合間に本を読むと、いつもひどく怒りました。元々男でない私には期待が少ない上に、「この子は放っておいても自分のことは自分でできる」という安心感があったのかもしれません。私の勉強や学校生活に対する両親や祖父母の関心は無いに等しいもので、私はいつもそのことが不満でした。
当時学校では、無償教育をうたう学校とは思えないほど保護者の熱心な協力(の名の下で行われる賄賂の受け渡し)が暗黙の了解のようなものになっていました。現金を渡すわけではないのですが、いろいろな物資を届けるなどして学校の行事に積極的に参加したり、先生の個人的な頼みごとにも進んで協力したりする保護者がいました。そうした保護者の子供はクラスで幹部になれたり、先生に可愛がってもらったりしていました。物不足や先生の給料の少なさなどを考えれば、そういう副収入のようなものでもなければ学校や先生ももたなかったのでしょう。
私は、私に無関心で協力してくれない両親や祖父母にいつも不満で、なんとなく学校でも肩身が狭い思いをしていました。私の家は日本から来た帰国者家庭で、父も医者をしているのだから、なおさら先生に申し訳ない気持でした。私が勉強ができなかったとしたら、私の学校生活はもっと苦しいものだったかもしれません。
著者紹介
リ・ハナ:北朝鮮・新義州市生まれ。両親は日本からの「帰国事業」で北朝鮮に渡った在日朝鮮人2世。中国に脱出後、2005年日本に。働きながら、高校卒業程度認定試験(旧大検)に合格し、2009年、関西学院大学に入学、2013年春、卒業。現在関西で働く。今年1月刊行の手記「日本に生きる北朝鮮人 リ・ハナの一歩一歩」は多くのメデイアに取り上げられた。
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