日本入りした脱北者として初めて大学を卒業したリ・ハナさん。今年1月刊行の手記「日本に生きる北朝鮮人 リ・ハナの一歩一歩」は多くのメデイアに取り上げられた。撮影:金慧林
日本入りした脱北者として初めて大学を卒業したリ・ハナさん。今年1月刊行の手記「日本に生きる北朝鮮人 リ・ハナの一歩一歩」は多くのメデイアに取り上げられた。撮影:金慧林

( ※ 当連載は、「私、北朝鮮から来ました ~日本に生きる脱北女子大生~ リ・ハナ」 を再構成してアップしております。)
「私、北朝鮮から来ました」記事一覧

第2回 北朝鮮への帰国
◆済州島出身・海女だった祖母
父方の祖父母はともに1920年代生まれ。韓国の済州島を故郷に持つ南(朝鮮)出身です。祖母は8人兄弟の長女で、小さい頃から海女さんをして生計を助けたそうです。

祖母はとても美人でした。背丈は170センチを越え、色白で丸い顔、二重の大きい目に少し控えめの鼻と唇を持った、嫁や孫娘たちの誰も敵わぬ美貌の持ち主でした。年を取っても他のおばあさんたちのように腰が曲がることもなく、その美貌は健在でした。
祖母の口癖を借りれば、「18歳コッタウン(花のような)年頃に、ウォンス(怨讐:カタキ)のように憎らしい旦那に出会い、ふるさと済州島を離れ日本に流れてきて、また北朝鮮にまで流れてきて、まぁプルサンハン(可哀想な)我が人生!」だそうです。

いつ頃日本に来たのかはよく分かりませんが、祖父母は、長崎の五島列島で暮らしていました。漁業を営み、祖母はずっと海女さんをやっていて、それに関わる商売もしていたそうです。やがて祖父母は4男1女を授かり、家計も上向いて安定した暮らしができるようになりました。

「クルモルヌン(字を知らない、知識のない)ことが一生のハン(恨:心残り)」である祖母は、財を成すことと、子供たちに勉強させることが目標であり、そのために必死に働いたそうです。私の叔父(四男)を身ごもってもお構いなく海に入り、生まれて間もない頃から世話もちゃんとしてあげられなかったために、叔父は脳の発育が少し遅れた知的障害者になってしまいました。祖母は、お金儲けに目がくらんで子供の一生を狂わせたと悔やみ、叔父が北朝鮮で亡くなるまで、他の子供以上に面倒を見てあげました。

そんな祖母の苦労をよそに、祖父はしょっちゅう外泊をし、家族を顧みぬダメな父親だったといいます。外で何をしているか分からないが、そんなことを気にしている余裕がないほど、祖母はとても忙しかったそうです。

韓国済州島から日本にやってきて、生活基盤を築いた私の祖父母。(おそらく)韓国での暮らしよりも日本での暮らしが長くなった祖父母にとって、日本は第二の故郷であり、日本に対する感情も特別なものであったと思います。たくさんの苦労と涙、血のにじむような努力があったでしょう。でも、日本での生活がとても楽しく、生き生きと暮らしていたことは間違いありません。祖母は、故郷・済州島の話以上に日本での話をよくしていて、そんな話をするときの祖母の目はとても輝いていたのですから。
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