( ※ 当連載は、「私、北朝鮮から来ました ~日本に生きる脱北女子大生~ リ・ハナ」 を再構成してアップしております。)
「私、北朝鮮から来ました」記事一覧
第3回 我が家の「独裁者」、祖母の原始的生活(1)
◆野菜も家畜も自給自足
私の祖父母と父、叔父たちは、帰国当初、周りから大金持ちが来たと噂されるほど、派手に新義州での生活をスタートさせました。しかし、実際の我が家の生活は、周囲の予想を裏切る意外なものでした。なんと、我が家の「独裁者」である私の祖母は、自給自足に近い「原始的な」生活を始めたのです。
確かに、家の中は日本製の家財道具が並び、普通の人では買えないカレーなどの食品や、シャンプー、リンスなどの日用品を「外貨商店」で買い、少しぐらい高くても良いものを食べるといった生活は、周りの人からすると羨ましいものだったでしょう。しかし、それだけでは、勤勉をモットーとする祖母の気持ちは満足しませんでした。「働かざる者食うべからず」が祖母の口癖でした。祖母は、倉庫前の少しの空き地を耕し、野菜栽培を始めました。
それだけでは満足できなくなった祖母は、付いている畑が広いという理由で近くの一軒家を買い、私の両親を住まわせました(後に私の伯父の家族が住むようになりました)。そして、毎日のようにその畑に通い、季節ごとに野菜を栽培したのです。冬には堆肥を運び、春には種をまき、夏には草刈りをして秋には収穫まで、祖母は休むことなく体を動かしました。祖母から言わせれば、化学肥料が入っていない自家製の野菜が一番美味しいし、汗を流して作った野菜だからこそ、残さずきれいに食べられるのだそうです。
白米のご飯を食べることが生活レベルを表す一つの尺度であった当時、祖母は、「白米は力が出ないし体にも良くない」と、必ず雑穀を混ぜたご飯を食べました。エコや健康がブームの昨今を考えると、私の祖母は先見の持ち主だったのか、それとも本当に原始的な考え方を持った昔の人間だったのか。とにかく、時代や流行、周りの目などまったく気にせず、持論通りに突き進む面白いおばあさんでした。またそのことが、(今思えば)他の帰国者とは一線を画した、私の祖母の立派な生き方でもありました。
都市部に住む帰国者たちには、力仕事を嫌がり、他人の目や体面を保つことばかり気にしている人が多かったように思います。市場に出て商売をすることなどできない、などと言って、日本からの仕送りに頼っていた帰国者もいました。「帰国者は生活力がない」という言葉もよく聞く話で、1990年代の「苦難の行軍」の時期に、大打撃を受けた帰国者も多くいました。そのような帰国者のイメージとは大きく違った生活をしたのが、私の祖母だったのです。
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