祖母は、野菜栽培にとどまらず、「畜産業」もやりました。倉庫の中に、豚や鶏、鴨、犬などを数十匹飼い、私たちに食べさせる以外に、米や現金に替えたりもしました。アパート暮らしでそこまでするのもどうかと思いますが、祖母はとても「真面目に」取り組んでいました。ただ、損得を考えない祖母は、家畜に野菜や食べ残しだけでなく、他の家では人間が食べる豆やトウモロコシなどの穀物をわざわざ買って、粉にして食べさせたりもしました。草だけで育った家畜は美味しくないというのが祖母の持論だったのです。祖母は一番良い豆を大量に買って、毎年味噌や醤油も作りました。
そのような祖母の行動は、幼い私が理解できる範疇を超えていました。汚くて臭い堆肥をリヤカーで運んだり、新しい服やズボンの膝とお尻のところに当て布をして着たり、新聞紙に刻みタバコを巻いて吸ったり...。お金がないのかと思うと、食卓にはなかなか手に入らない美味しいものが並び、冬を迎えるための一大行事であるキムジャン(立冬前後に、越冬用のキムチや漬物などを大量に漬け込むこと)や暖房(主に石炭粉をこねて作った練炭を利用)には、一番良いものを使うなど、祖母の感覚は普通の人と違っているとしか思えませんでした。
もっと大変なのは、祖母がそのようなことを私たちにも強要することでした。祖父は、祖母に急かされて何かしら道具を作るのが日課でした。野菜栽培用の道具を修理したり、家畜用の檻を作ったり...。倉庫だけでは物足りなかった祖母は、祖父が高齢を理由に車を処分して空いた車庫を、家畜の檻や小道具が揃った空間に、立派に改造させたのです。
祖父だけではありません。息子や嫁たち、孫たちも例外ではありませんでした。息子や嫁たち、孫たちも、祖母の呼び出しがかかるときは理由の如何を問わず、手伝いに来なければなりませんでした。それでも、大人たちは各々仕事をしているので、祖母も大掛かりなこと以外では息子や嫁たちを呼ぶことは少なかったです。そのため、学校の高学年に入った孫たちは、あの手この手を使って祖母から逃れようとしました。
(続く)
著者紹介
リ・ハナ:北朝鮮・新義州市生まれ。両親は日本からの「帰国事業」で北朝鮮に渡った在日朝鮮人2世。中国に脱出後、2005年日本に。働きながら、高校卒業程度認定試験(旧大検)に合格し、2009年、関西学院大学に入学、2013年春、卒業。現在関西で働く。今年1月刊行の手記「日本に生きる北朝鮮人 リ・ハナの一歩一歩」は多くのメデイアに取り上げられた。
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