平安南道安州(アンジュ)市の一般的なアパート。2008年6月 撮影:白香(ペク・ヒャン)
平安南道安州(アンジュ)市の一般的なアパート。2008年6月 撮影:白香(ペク・ヒャン)

◆大家族を支えた祖母の先見
祖父は、家族を北朝鮮に連れてきてしまった「罪」を祖母から問われ(後に4人の息子のうち3人が死に、祖母は、祖父のせいで息子たちが死んだと嘆きました)、文句が言えない無口な人間になってしまいました。生真面目な3人の息子たちも、自分の仕事をこなすので精一杯で、家族の面倒を見るより、酒とタバコを好むダメ息子。祖母に頭が上がらず、祖母の言うことに従うだけ(良い表現だと寡黙な)息子たちでした。

そんな旦那と、そんな息子たち、それに嫁や孫まで面倒を見るために、祖母は強く逞しく生きました。国からの配給だけでは生活が維持できない北朝鮮での暮らしを、この先ずっと、永遠に続けなければならない。日本からの援助も望めない。持ってきた財産には限りがある。そんな状況で、少しでも息子や孫たちに良い暮らしをさせるために、祖母はお金を節約し、財産、祖母の言葉を借りれば「ピロモウン(血を流して集めた)財産」を、毎年息子たちに分け与えました。

祖母があれだけ働いたのも、これからも厳しくなるばかりであろう北朝鮮での暮らしを生き抜くための、先を見通した行動だったのかもしれません。大家族を率いる祖母にもきっと不安や苦悩があったでしょうに、祖母は一家の大黒柱として、右肩下がりの我が家を支えたのです。
そんな祖母は、私の人生に一番の影響を与えた人物でした。
(続く)
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