◆ 父の愛情
入団式では、胸につけてもらうバッジは学校でくれるのですが、赤い三角のネクタイは自分で用意しなければなりませんでした。売っているものではないので、誰かのお下がりをもらうのが普通でしたが、あいにく私の周りでは、ネクタイをもらえるようなところがありませんでした。仕方なく私は、練習の間だけという父の言葉を信じ、ネクタイに似た赤色の布を持って練習をしていました。
しかし、入団式が日一日と近づいてきているのに、依然父からネクタイの話はありません。少し不安になってきましたが、忙しい父に何度も話すのも気が引ける上、正直父が怖いので、なかなか言い出すことも出来ず、ひとり悶々としながら思い悩んでいました。
入団式前日、その日は祖母の家で寝ることになったのですが、私は、音沙汰なしの父を恨みながら布団の中でこっそり泣いていました。
父はそのとき、当直で病院にいるはずでした。父は救急患者や当直などで病院に泊まることも多かったのですが、その日も当直で、夜も帰ってこないのです。
私は、諦めました。頭まで布団をかぶって、枕に沁みる涙がひんやりと冷たくなるのを感じながら、声を殺して泣いていました。
どれくらい時間が経ったでしょうか。知らぬうちに浅い眠りについていた私は、玄関のところに灯りがついて、祖母の話し声が聞こえるのに気付きました。布団の隙間から玄関の方を見ていた私は、玄関に立って祖母と話している人が父だとわかり、ドキドキしはじめました。父と祖母が何を話しているのかはよく聞こえませんが、祖母の手に赤いものが握られているのをはっきり見たのです。
「お父さんがネクタイを持ってきてくれたぁ!」
私は嬉しさのあまり飛び上がりそうになりましたが、じっとこらえました。今起きると、まだ寝ていないのかと怒られるからです。
父は、すぐにまた病院に向かう様子でした。父を見送った祖母が玄関の灯りを消して戻ってきて、私の枕元にネクタイを置いてくれました。しばらく寝ているふりをしていた私ですが、そのネクタイに手が伸びる自分を抑えることはできませんでした。
幼いながらに、胸いっぱい父の愛情を感じました。あんなに怖い父でも、実は私のことを考えてくれていたのだと今度は嬉し涙がこぼれました。父は私のことが嫌いじゃないんだ、表現しないだけなんだと、何度も自分に言い聞かせながら深い眠りにつきました。
翌朝の入団式で軍服を着たおじさんが、父が私にくれたネクタイを結んでくれました。私は、満面の笑顔で、力いっぱい、「ハンサンジュンビ!(恒常準備―少年団の合言葉)」と答えました。
※在日朝鮮人の北朝鮮帰国事業
1959年から1984年までに9万3000人あまりの在日朝鮮人と日本人家族が、日朝赤十字社間で結ばれた帰還協定に基づいて北朝鮮に永住帰国した。その数は当時の在日朝鮮人の7.5人に1人に及んだ。背景には、日本社会の厳しい朝鮮人差別と貧困があったこと、南北朝鮮の対立下、社会主義の優越性を誇示・宣伝するために、北朝鮮政府と在日朝鮮総連が、北朝鮮を「地上の楽園」と宣伝して、積極的に在日の帰国を組織したことがある。朝鮮人を祖国に帰すのは人道的措置だとして、自民党から共産党までのほぼすべての政党、地方自治体、労組、知識人、マスメディアも積極的にこれを支援した。
著者紹介
リ・ハナ:北朝鮮・新義州市生まれ。両親は日本からの「帰国事業」で北朝鮮に渡った在日朝鮮人2世。中国に脱出後、2005年日本に。働きながら、高校卒業程度認定試験(旧大検)に合格し、2009年、関西学院大学に入学、2013年春、卒業。現在関西で働く。今年1月刊行の手記「日本に生きる北朝鮮人 リ・ハナの一歩一歩」は多くのメデイアに取り上げられた。
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