◆タバコと酒、病に蝕まれた父
夢中になることがなくなってしまった父は、仕事以外のときはほとんどお酒を飲んでいました。元々ヘビースモーカーだった父は、一日二箱以上のタバコを吸い、びっくりするほどの量のお酒を飲んでいました。とても病気の人がやることとは思えないその行動は、人生を諦めたとしか言いようのないものでした。
病気を治して生きていこうなどと最初から思っていなかった父は、自分の寿命を縮めるような行動を、体が弱りきって受けつけられなくなるまで続けたのです。そして、薬と栄養食で耐えていた体がとうとう限界に達し、亡くなる3年ほど前から外出もできない状況になりました。いろいろな病気が重なり、痛みも訴えるようになった父は、何とかして生きることより、死ぬときまで楽でいることしか考えなくなり、鎮痛のためにモルヒネに依存するようになりました。
最初は病院などから手に入れていたモルヒネも、父がそれに依存するようになると、家族もなかなか渡さなくなりました。すると、父は自ら入手して打つようになり、ときには家族の目を盗んで、闇市で買って使うようになりました。
私の祖母は、当の本人も諦めた父の命を何とかして延ばそうと、涙ぐましい努力をしました。薬や栄養食はもちろん、父の体に良いと言われるものは何としてでも手に入れて、父に食べさせようとしたのです。
どこから手に入れたのか、販売が禁止されている鹿の肉を生で父に食べさせたこともありました。藁にもすがる思いで、迷信だと嫌がっていた占いに見てもらい、クッ(巫女が供え物や歌舞で神に祈る儀式)も行いました(占いは国で禁止されているため、表に出して堂々とできるものではない)。そんな祖母の気持ちを逆手にとった悪者によって、詐欺にあうこともありました。それでも祖母は諦めることができなかったのです。
「お坊さんは自分の頭を刈れない」という諺が朝鮮にはありますが、皮肉なことに、医師である父は病気を患い、40代半ばにしてむなしくも亡くなりました。数年間の闘病の末、合併症に侵された父は、私が17歳のときに、無念な想いを抱いたまま、静かに息を引き取ったのです。
※在日朝鮮人の北朝鮮帰国事業
1959年から1984年までに9万3000人あまりの在日朝鮮人と日本人家族が、日朝赤十字社間で結ばれた帰還協定に基づいて北朝鮮に永住帰国した。その数は当時の在日朝鮮人の7.5人に1人に及んだ。背景には、日本社会の厳しい朝鮮人差別と貧困があったこと、南北朝鮮の対立下、社会主義の優越性を誇示・宣伝するために、北朝鮮政府と在日朝鮮総連が、北朝鮮を「地上の楽園」と宣伝して、積極的に在日の帰国を組織したことがある。朝鮮人を祖国に帰すのは人道的措置だとして、自民党から共産党までのほぼすべての政党、地方自治体、労組、知識人、マスメディアも積極的にこれを支援した。
著者紹介
リ・ハナ:北朝鮮・新義州市生まれ。両親は日本からの「帰国事業」で北朝鮮に渡った在日朝鮮人2世。中国に脱出後、2005年日本に。働きながら、高校卒業程度認定試験(旧大検)に合格し、2009年、関西学院大学に入学、2013年春、卒業。現在関西で働く。今年1月刊行の手記「日本に生きる北朝鮮人 リ・ハナの一歩一歩」は多くのメデイアに取り上げられた。
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