◆ 年の瀬のある朝
それから数ヵ月後、その年もあと数日を残すのみとなりました。交代で父の様子を見守っていた私たちは、藁にもすがる思いで、今年を無事に乗り越えれば父の病気は治ると言った占い師の言葉を思い出していました。ワクワクしながら新しい年を待つ人々とは異なり、私たちは切実な気持ちで、一刻も早く今年が過ぎ去り、新たな年が訪れてほしいと願っていました。
祖母の家で迎えたある朝、父が息をしていないという連絡が入りました。飛び上がった祖父母は父のところに、私は父が勤めていた病院に走りました。応急措置をすれば息を吹き返すかもしれないという期待を胸に、私は必死で走りました。
まさか、まさか、いや、そんなはずない。父が亡くなるはずがない!私は心の中で叫びました。そのときはまだ父が助かると固く信じていたので、涙は出ませんでした。無我夢中で走り、父が勤めた診療科のドアを開けながら、私は中に人がいるかどうかも確認せず、叫びに近い声を上げました。
「父が息をしていません!!!」
診察室の中で閑談をしていた数人が私を見ました。その中で一番若く見える30代の医師が、ほぼ条件反射的に傍にある診療カバンを手に持ち、「ついて来て!」と言って部屋を飛び出していきました。その医者は私の家を知っているようで、早く走れない私をおいて、一人で走り去っていきました。
私は、つった脚を引きずるようにして家に向かいました。病院に走ったときよりスピードが落ちてしまいましたが、それでも力をふり絞って走りました。息が上がってハアハアしながらも、医者が行ったから大丈夫だと、淡い期待を持っていました。しかし、家のドアを開けて、心臓マッサージをしている医師の姿を目にしたとき、そして、その先生が手を離して沈痛な面持ちで首を横に振ったとき、私は父が亡くなったことを実感しました。
周りの誰も言葉を発しませんでした。言葉も涙も出ない、全身の力が抜けてしまった私は、ただただ黙って、しばらく父の顔を見つめていました。
著者紹介
リ・ハナ:北朝鮮・新義州市生まれ。両親は日本からの「帰国事業」で北朝鮮に渡った在日朝鮮人2世。中国に脱出後、2005年日本に。働きながら、高校卒業程度認定試験(旧大検)に合格し、2009年、関西学院大学に入学、2013年春、卒業。現在関西で働く。今年1月刊行の手記「日本に生きる北朝鮮人 リ・ハナの一歩一歩」は多くのメデイアに取り上げられた。
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