太平洋を望む紀伊半島には原発は一基もない。福井県の若狭湾に原発が集中しているのとは対照的だ。かつて紀伊半島に広がる和歌山県でも誘致の是非をめぐり、いくつもの町が揺れた。県の南西部、紀伊水道に面した日高町もその一つ。巨額の補償金を提示して建設を迫る関西電力を押し返した住民はいま、どんな思いでいるのか。40年にわたって反対運動を率いた漁師を現地に訪ねた。(矢野 宏 新聞うずみ火)
◆46年前に浮上した原発建設計画
青く透き通った海、遠浅の砂浜が広がる方杭浜。波と戯れる母子の姿に目を細めていた。漁師、濱 一巳さん(63)が口を開いた。「あれが小浦崎(おうらざき)」。視線の先には海に面した緑の岬があった。方杭浜から海を挟んで800メートル。関電はその岬の突端部分を埋め立て120万キロワットの原発2基を建設する計画を立てた。
「だまされなくてよかった」と濱さんは呟いた。「原発事故が起きればどうなるか。一つ間違えば、人間の手では止められない。破局をもたらす」
日高町に原発の建設計画が持ち上がったのは1967年7月。当時の町長が賛意を表明し、町議会も全会一致で誘致を決定した。
このとき、関電はすでに日高町阿尾地区を原発建設の第一候補地として用地買収を終えていた。
その土地は、大阪の木材会社が「製材工場や貯木場として使用するから」と住民らから買収したもので、「転売はしない」という約束まで交わしながら関電に転売したのだ。住民たちは土地の返還を求めて提訴。激しい反対運動が繰り広げられ、関電は阿尾地区での建設を断念。新たな原発建設予定地として選んだのが小浦地区だった。
原発推進は国策であり、関電は大企業である。町も関電とともに原発建設を推進した。「原発ができれば、町が豊かになる」「難しいことはわからんが、お上が言うことだから」。住民の多くは疑うこともなく、原発推進へ流されていった。関電の接待攻勢や子供の就職あっせんを受けて賛成に転じた者も少なくない。
その頃、原発を立地した町への視察旅行も頻繁に行われていた。視察といっても実態は観光であり、接待だった。
当時、比井崎漁協組合の理事で、濱さんの父だった清一さんも誘われ、何度か参加した。松江市へ行ったとき、港で網を修繕している年配の漁師に尋ねた。「原発ができてどうですか」。沈黙のあと、漁師は口を開いた。「後継ぎはおるんか」。清一さんが「息子がおる」と答えると、その漁師は言った。「後継ぎがおるのなら、こんなもの造らすな。ええことはない」
原発ができてから冷たかった海水が温かくなり、水中が揺れて見える「潤み現象」が起きたというのだ。
父からその話を聞いた濱さんは、日高の海を守ることを決意する。「親からもらった海を原発で汚したらあかん」(つづく)
【矢野 宏 新聞うずみ火】
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