巨額の補償金を提示して原発建設を迫る関西電力を押し返した住民はいま、どんな思いでいるのか。40年にわたって反対運動を率いた漁師を現地に訪ねた。(矢野 宏 新聞うずみ火)
◆原発反対に立ち上がる漁師~原発が安全なら、なぜ都会に建てない?
日高町の原発建設反対運動を率いた、濱一巳さん(63)は当時、20代の青年漁師。反対派が共有しているのは素朴な疑問だった。
「原発が安全だというのなら、なぜ、電気を大量に消費する都会に原発を建てないのか」。
関西の反原発運動のリーダー的存在だった大阪大学講師の久米三四郎さんをはじめ、京都大学原子炉実験所助教の小出裕章さん、今中哲二さんらが何度も足を運んでくれた。
久米さんは四国電力伊方原発設置許可取り消し訴訟で原告側の証人として論陣を張った体験から「原発は、建設が始まってから反対したのでは遅い。裁判で長期に闘うことを考えたら、いま命がけで阻止すべきだ」と訴えた。
原発建設には、陸と海からの環境調査が必要だった。81年、関電は町の同意を得て陸上調査を開始。あとは、漁協が海上調査に同意すれば原発建設が始まる。
当時、比井崎漁協の理事14人のうち反対派は3人。それでも濱さんら反対派は激しく抵抗した。
推進派は何としても総会・総代会を開き、数の力で押し切りたい。専務理事から「組合に入ったら(補償金の)おこぼれがもらえるぞ」と誘われた住民が次々に組合員に名を連ね、300人を超えたときがある。濱さんらは「船を持っていない、魚一匹釣ったことのない人間が組合員にいるのはおかしい」と追及して総会を閉会に追い込んだ。
臨時総会の日程を知ると、議題の問題点を書き込んだチラシを作り、夜中に小学校でチラシ2000枚を印刷。朝5時までに新聞に折り込んで全戸配布したこともあったという。
推進派の根回しを恐れ、漁に出ることもできない。濱さんは反対運動のため、車で走り回る日々が続いた。ガソリン代などの持ち出しは月に4、5万円。一家の生活は、民宿「波満(はま)の家」を切り盛りする妻が支えた。「反対運動をやれとは言ったが、そこまでやれとは言わんかった。長いもんには巻かれろとも言うぞ」。堪りかねて諭す、父親の清一さんに、濱さんは言い返した。「親父、金儲けは原発止めてから、なんぼでもしたる」