.◆透明で美しかった海に、大量の魚の死骸が。そして姉の発症...
坂本さんは父の勤務先の新潟で生まれた。戦後すぐに一家で父のふるさとへ。のちに水俣病多発地となる湯堂という海辺の集落だった。複雑に入り組んだ海岸線を持つ不知火海は「魚湧く」と称されるほど豊かな海だった。「深い海の底のウニが見えるほど透明でした」と坂本さんは振り返る。
恵みの海に異変があらわれたのは1950年代前半。海に大量の魚が何度も浮いたのを坂本さんも覚えている。「飛んでいたカラスがいきなり海に墜落したのを見たこともありました」。さらに、かわいがっていた飼い猫が狂ったように庭の桜の木に突進して死んだ。

水俣病が公式に確認されたのは1956年5月。しかし海沿いの漁村ではそれ以前から異変が発生、さらには死産や早産する母親が相次ぎ、後にいう、「胎児性水俣病患者」として生まれた子どもも多くいた。坂本さんの家でも、営林署に勤める5つ上の姉、清子さんに症状が出た。54年のことだった。

「足がもつれてよく転ぶようになりました。切り傷で血だらけになっても、翌日、麻酔なしで6針縫っても全く痛がらない。その後だんだん呂律も回らなくなり、足も立たなくなりました。昭和31(1956)年には寝たきりになってしまったのです」
病院をたらい回しにされた。最初は栄養失調。20歳を過ぎていたのに次は小児麻痺。最終的には「伝染病」。付き添った坂本さんと父が家に帰ると、保健所職員が白い粉を家中に撒き散らしていた。伝染(うつ)る病気が発生したとされた坂本家は「村八分」に。共同井戸も使わせてもらえなくなった。

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